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たった一匹の豚が米英を戦争寸前に!「豚戦争」の知られざる真実
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たった一匹の豚が米英を戦争寸前に!「豚戦争」の知られざる真実

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歴史に残る「最もバカバカしい戦争」の幕開け

歴史の舞台では、時に信じがたいほど些細な出来事が、国家間の重大な対立の引き金となることがあります。1859年、太平洋岸北西部の美しい島で起きた事件は、その中でも特に奇妙で、そして滑稽な一例として語り継がれています。主役は、当時世界を二分する大国であった大英帝国と、建国から間もない新興国アメリカ合衆国。そして、この二大国を全面戦争の瀬戸際まで追い込んだのは、なんとジャガイモ畑を荒らした、たった一匹の豚の死でした 。

「豚戦争(Pig War)」として知られるこの紛争は、その名の通り、一匹の豚を巡るいさかいから始まりました。しかし、その背景には、国家の威信、領土的野心、そして現場の軍人たちの暴走があったのです。事態は瞬く間にエスカレートし、最終的には英国の軍艦5隻(大砲70門、兵員2,140名)と、米国の部隊(兵員461名、大砲14門)が、狭い海峡を挟んで睨み合うという、一触即発の軍事対峙にまで発展しました 。

驚くべきことに、13年近くに及んだこの対立において、唯一の犠牲者は、そもそもの原因となった豚一匹のみでした 。本記事では、国際紛争がいかに馬鹿げた理由で燃え上がりうるかという「国際問題のしょうもなさ」を浮き彫りにしながら、この滑稽にして深刻な「豚戦争」の全貌を、その背景から結末まで詳細に追っていきます。

曖昧な国境線が招いた火種

すべての混乱の根源は、1846年にワシントンD.C.で調印されたオレゴン条約に遡ります。この条約は、長らく続いた米英間の太平洋岸北西部における領土問題を解決し、北緯49度線を国境と定めることを目的としていました 。しかし、問題は海上の境界線にありました。条約は、国境線が北緯49度線から「バンクーバー島と大陸を隔てる海峡の中間」を南下すると定めたのですが、この一文が後に「豚戦争」の火種となる致命的な欠陥を孕んでいたのです 。

致命的な条約の曖昧さ

「海峡の中間」という言葉は、一見すると明快に思えます。しかし、実際の地図を広げると、そこには一つの海峡ではなく、複数の水路が存在しました。バンクーバー島に近い「ハロ海峡」と、アメリカ大陸に近い「ロザリオ海峡」です。そして、この二つの海峡の間には、サンフアン諸島と呼ばれる大小の島々が点在していました 。

当然のことながら、両国は自国に有利な解釈を展開しました。アメリカは、より西側にあるハロ海峡こそが条約の意図した「主要な海峡」であると主張し、サンフアン諸島全域の領有権を求めました。一方のイギリスは、より東側にあるロザリオ海峡が境界線であると主張し、同じく諸島の領有権を譲りませんでした 。この地理的な認識の齟齬が、サンフアン島を主権の及ばない「係争地」へと変貌させたのです。

奇妙な共同生活と高まる緊張

条約の曖昧さが放置される中、サンフアン島では奇妙な共存関係が生まれていました。イギリス側は、巨大な毛皮貿易企業であり、事実上の植民地統治機関でもあったハドソン湾会社(HBC)を通じて、既成事実を積み重ねようとしました。1851年にはサーモンの加工所を、そして1853年には島の南端に「ベルビュー羊牧場」を設立し、実効支配を強化したのです 。

一方のアメリカ側からは、1850年代半ばから入植者たちが続々と島に渡ってきました。彼らは、アメリカの領土を西へ西へと拡大することは神から与えられた明白な天命であるとする「マニフェスト・デスティニー」の思想に後押しされていました 。彼らは勝手に土地を囲い込み、農地を開墾し始めたのです。イギリス側、特にHBCの目には、彼らは単なる「不法占拠者」にしか映りませんでした 。

このように、一つの島の上に、互いを不法な存在と見なす二つの共同体が同居するという、極めて不安定な状況が続いていました。小さな火花が、いつ大火事になってもおかしくない緊張感が島を覆っていたのです。実際、豚の事件が起きる4年前の1855年には、アメリカのワットコム郡当局がHBCに納税を要求し、支払いを拒否されると牧場の羊34頭を差し押さえるという事件も発生していました 。これは、来るべき対立の予行演習とも言える出来事だったのです。

運命の豚、その最後の一鳴き

1859年6月15日、その日はサンフアン島にとって運命の日となりました。この日に起きた一つの出来事が、歴史の歯車を大きく、そして奇妙な方向へと回転させることになります。

事件のあらまし

物語の主要な登場人物は三人(と一匹)です。

ライマン・カトラー: アメリカ人農夫。自分の畑を聖域とみなし、それを侵す者には容赦しない、典型的なフロンティア精神の持ち主でした 。

チャールズ・グリフィン: ハドソン湾会社(HBC)の従業員で、ベルビュー羊牧場の管理者。数頭の豚を所有しており、島の慣習に従って自由に放し飼いにしていました 。

運命の豚: グリフィンが所有する一頭の大きな黒豚。この豚は、カトラーの丹精込めて育てたジャガイモの味をことのほか気に入っていたようです。

その日の朝、カトラーはまたしても自分のジャガイモ畑が荒らされているのを発見しました。犯人は、見慣れたHBCの黒豚でした。度重なる侵入に、カトラーの堪忍袋の緒はついに切れました。彼はライフルを手に取り、ジャガイモを食い荒らす豚を射殺してしまったのです 。

滑稽な交渉劇

当初、カトラー自身も事の重大さを認識していたのか、あるいは単に隣人としての良心が咎めたのか、グリフィンのもとを訪れ、豚の代金として10ドル(現在の価値で約350ドル)の支払いを申し出ました 。これは当時としては決して安くない、良心的な金額でした。

しかし、グリフィンはこの申し出に満足しませんでした。彼は激昂し、100ドル(同、約3,500ドル)という法外な金額を要求したのです 。このあまりに高圧的な態度に、今度はカトラーが激怒しました。「そもそも、お前の豚が俺の畑に不法侵入したのが原因じゃないか。一銭も払う必要はない」と彼は主張を翻したのです 。

この後の二人のやり取りは、半ば伝説として語り継がれています。いくつかの記録によれば、彼らの口論は次のようなものであったといいます。

カトラー:「だが、あれは俺のジャガイモを食っていたんだ!」
グリフィン:「馬鹿なことを。お前のジャガイモを俺の豚から遠ざけておくのが、お前の仕事だろうが!」

この子供の喧嘩のようなやり取りは、事件の「しょうもなさ」を象徴しています。しかし、この小さな意地の張り合いが、国家のプライドを巻き込む大問題へと発展していくのです。

民事トラブルから国家主権へ

グリフィンは、地元の英国当局にこの一件を報告しました。HBCの役人であり治安判事でもあった人物は、カトラーを逮捕すると脅しました 。この脅しが、事態の性質を決定的に変えました。もはや、これは豚の値段を巡る単なる民事トラブルではありません。「アメリカ国民が、アメリカの領土(と信じられている場所)で、英国の法によって裁かれようとしている」という、国家の主権と尊厳に関わる問題へとすり替わったのです 。

カトラーと他のアメリカ人入植者たちは、この「英国による不当な脅迫」から身を守るため、米軍に保護を求める請願書を作成しました。そして、その請願書は、太平洋岸北西部に駐留する、一人の血気盛んな将軍の手に渡ることになります。一匹の豚の死は、今や二つの大国のプライドをかけた対決のゴングを鳴らしてしまったのです。

将軍たちの暴走と、大艦隊の集結

一農夫と一会社員の間の小さな諍いは、現場の軍司令官たちの過剰な反応によって、瞬く間に本格的な軍事危機へと発展しました。特に、アメリカ陸軍オレゴン管区司令官、ウィリアム・S・ハーニー准将の独断専行が、このエスカレーションの最大の要因でした。

火に油を注いだ将軍たち

ウィリアム・セルビー・ハーニーは、当時の米陸軍の中でも特に気性が荒く、攻撃的な人物として知られていました。彼はまた、有名なアンチ英国派でもあり 、過去にはメキシコ戦争前に独断で部隊を率いてメキシコに侵攻しようとした前科まである、筋金入りのトラブルメーカーでした 。

1859年7月、カトラーらアメリカ人入植者からの保護要請を受け取ったハーニーは、これを英国に対する積年の鬱憤を晴らし、アメリカの威信を示す絶好の機会と捉えました。彼はワシントンの連邦政府に指示を仰ぐことなく、完全に独断で部隊の派遣を決定したのです 。

ハーニーの命令を受け、最初にサンフアン島に上陸する任を帯びたのが、第9歩兵連隊D中隊を率いるジョージ・ピケット大尉でした 。皮肉なことに、このピケットこそ、4年後の南北戦争におけるゲティスバーグの戦いで、南軍の悲劇的な突撃「ピケットの突撃」を指揮し、歴史に名を刻むことになる人物です 。

1859年7月27日、ピケットは64名の兵士を率いてサンフアン島に上陸。HBCの牧場のすぐ近くに陣を構えると、「ここをバンカーヒル(アメリカ独立戦争の激戦地)にしてやる」と豪語し、英国側を公然と挑発しました 。

帝国の威信を背負う総督

ピケットの上陸の報は、対岸のビクトリアにいるバンクーバー島総督、ジェームズ・ダグラスの耳にすぐさま届きました。HBCの最高責任者でもあったダグラスは、アメリカの領土的野心に強い警戒感を抱いており、この軍事行動に激怒しました 。彼は帝国の威信にかけて、この「侵略者」を排除すべく、英国海軍の出動を要請したのです 。

軍事力の増強と対峙

こうして、サンフアン島を巡る軍拡競争が始まりました。ハーニーは次々と増援を送り込み、8月末までにはアメリカ軍の兵力は461名、野戦砲を含む大砲14門にまで膨れ上がりました 。

対するイギリス側は、その圧倒的な海軍力を見せつけます。ジェフリー・ホーンビー艦長率いる31門の砲を持つ蒸気フリゲート艦「トリビューン」を皮切りに、次々と軍艦が島の沖合に集結しました。最終的に、その戦力は5隻の軍艦、70門以上の大砲、そして海兵隊員を含む2,140名の兵員という、アメリカ側を遥かに凌駕する規模に達したのです 。

| 国籍 | 兵力 | 大砲 | 軍艦 |

| :--- | :--- | :--- | :--- |

| アメリカ | 461名 | 14門 | -

| イギリス | 2,140名 | 70門以上 | 5隻 |

この表が示す数字の異様なアンバランスさは、事件の滑稽さを際立たせます。原因は一匹の豚の死。しかし、その結果として、数千の兵士と数十門の大砲が睨み合うという、まるで喜劇のような状況が現出したのです。

南北戦争の影

この一見ローカルな国境紛争には、実は当時深刻化していたアメリカ国内の南北対立という、より大きな問題の影が差し込んでいました。ハーニー准将とピケット大尉は、共に南部にルーツを持つか、南部に同情的な人物であったことが知られています 。そのため、彼らの行動の裏には、単なる対英強硬姿勢以上の、政治的な思惑があったのではないかという見方も存在します。

一つの説は、彼らが意図的に英国との戦争を引き起こし、「共通の敵」を作り出すことで、分裂しかけていた国内世論を一つにまとめ、南北間の対立を回避しようとしたというものです 。もう一つの説は、北部の注意を対英戦争に逸らすことで、その隙に南部の連邦からの分離独立を容易にしようと企んだというものです 。

これらの陰謀論の真偽を確かめる術はありません。しかし、この紛争を主導したアメリカ側の当事者たちが、数年後に勃発する南北戦争において南軍側の中核を担う人物であったという事実は、極めて示唆に富みます。この事実は、「豚戦争」が単なる国境紛争ではなく、南北戦争前夜のアメリカが抱える深刻な国内の亀裂を映し出す、一つの「前哨戦」としての側面を持っていた可能性を物語っているのです。

「豚一匹のために、二大国は戦えず」

軍事的緊張が頂点に達し、サンフアン島の空気が火薬の匂いを帯び始めた頃、事態は思わぬ方向へと転換します。暴走する現場の熱気とは対照的に、大局を見据えた「理性」の声が、破局的な戦争への道を塞いだのです。

理性の声、ベインズ提督

その声の主は、英国太平洋艦隊司令長官、ロバート・L・ベインズ少将でした 。バンクーバー島総督ジェームズ・ダグラスから、サンフアン島にいるピケットの部隊を武力で排除せよとの命令を受けたベインズは、現地の状況を視察し、その馬鹿馬鹿しさに愕然としました。彼は、圧倒的な戦力差を背景に攻撃を迫るダグラス総督に対し、歴史に残る有名な言葉で命令を拒否したのです。

「馬鹿げている。豚一匹を巡るいさかいで、二つの偉大な国家を戦争に巻き込むつもりはない」

このベインズ提督の冷静かつ賢明な判断が、全面戦争への引き金を引かせなかった決定的な瞬間でした。彼は、目先の小さな勝利よりも、大英帝国とアメリカ合衆国が戦火を交えることの愚かさと、それがもたらすであろう計り知れない損失を理解していたのです。現場の最高指揮官が示したこの「良識」は、暴走しかけていた事態に急ブレーキをかけました。

火消し役、スコット将軍の登場

一方、大西洋を越えたワシントンとロンドンでも、この「豚を巡る危機」の報告は驚きと困惑をもって受け止められていました。ジェームズ・ブキャナン米大統領をはじめとする両国の首脳たちは、一匹の豚の死が、これほど大規模な軍事対峙に発展したことに呆れ、その危険性を深く憂慮しました 。

事態を収拾するため、ブキャナン大統領は切り札を投入します。米陸軍総司令官、ウィンフィールド・スコット将軍です 。スコットは、米英戦争(1812年)の英雄であり、当時73歳の老将でした。重要なのは、彼が1830年代にメイン州とカナダの国境紛争、通称「豚肉と豆戦争」を平和的に解決した実績を持つ、熟練の交渉家でもあったことです 。まさに、この「豚戦争」の火消し役として、これ以上ない適任者でした。

高齢と病気で体は衰えていたものの、スコット将軍は国家の危機に立ち上がりました。彼は蒸気船と鉄道を乗り継ぎ、1ヶ月以上もの時間をかけてニューヨークから西海岸のサンフアン島まで、大陸を横断する長旅を敢行したのです 。

奇妙な妥協案の成立

1859年10月、サンフアン島に到着したスコットは、直ちにダグラス総督との交渉を開始しました 。両国の面子を保ちつつ、軍事衝突を回避するための現実的な解決策を見出すことが彼の使命でした。数週間にわたる粘り強い交渉の末、二人は前代未聞の妥協案にたどり着きます。

それは、両軍の大部分を島から撤退させ、それぞれが100人以下の兵力を残して、最終的な領有権が決定するまで島を「共同軍事占領」するというものでした 。これは、どちらの主権も認めないまま、平和的な現状維持を図るという、極めて巧妙な外交的解決策だったのです。

この合意に伴い、事態をエスカレートさせた張本人であるウィリアム・ハーニー准将は、連邦政府から公式に叱責され、司令官の任を解かれました 。彼の暴走は、こうして国家レベルの理性によって制されたのです。一触即発の危機は回避され、サンフアン島は、これから12年間にわたる奇妙で平和な時代を迎えることになりました。

12年間の平和な対峙と、忘れられた犠牲

ウィンフィールド・スコット将軍の仲介によって軍事衝突が回避された後、サンフアン島では世界史的にも稀な、奇妙な光景が繰り広げられることになりました。かつて互いに銃口を向け合った米英両軍が、12年もの長きにわたり、一つの島を平和的に共同で占領したのです 。

二つのキャンプと友好の逸話

合意に基づき、両軍はそれぞれ100名以下の兵力を残し、島の南北に分かれて駐留しました。米軍は南部の高台に「アメリカン・キャンプ」を、英国海兵隊は北西部のギャリソン湾に面した場所に「イングリッシュ・キャンプ」を設置しました 。こうして、二つの軍隊による奇妙な共同生活が始まったのです。

戦争寸前の緊張感は嘘のように消え去り、両キャンプの間には驚くほど友好的な関係が築かれました。記録によれば、兵士たちは互いのキャンプを頻繁に訪問し、酒を酌み交わし、親しく交流したといいます 。その友好ぶりは、国家的な祝祭の日に頂点に達しました。毎年7月4日のアメリカ独立記念日には、イングリッシュ・キャンプの英国海兵隊がアメリカン・キャンプを訪れて祝賀会に参加し、逆にヴィクトリア女王の誕生日には、アメリカ兵がイングリッシュ・キャンプに招かれて祝杯をあげました。互いの祝日を尊重し、祝砲を撃ち合って敬意を表したのです 。

また、彼らは共にピクニックに出かけ、競馬や袋競走、様々な陸上競技を共催しては、その勝敗に一喜一憂しました 。将校たちに至っては、共に教会での礼拝に参加し、HBCのチャールズ・グリフィン(あの豚の飼い主です)の家で、ウィスキーと葉巻を片手に談笑することもあったといいます 。この平和で牧歌的な対峙は、やがて対岸のビクトリアの住民たちの間で評判となり、この奇妙な光景を一目見ようと、遊覧船まで運航されるほどの「観光名所」と化しました 。

「平和な戦争」の裏の顔

しかし、この「豚一匹しか死ななかった平和な戦争」という、どこか心温まる物語は、二つの重要な側面を覆い隠しています。

第一に、共同占領期間中に、決して血が流れなかったわけではないという事実です。戦闘による死者こそいなかったものの、この12年間で、事故、溺死、病気、そして自殺によって、少なくとも米兵16名と英国海兵隊員7名がこの島で命を落としています 。彼らの死は、戦争の英雄として語られることはありませんが、この紛争がもたらした紛れもない犠牲でした。

第二に、そしてより深刻なのは、この土地の本来の所有者であった先住民、沿岸セイリッシュ族にとって、この「平和な解決」がもたらした影響です。彼らにとってサンフアン諸島は、何世代にもわたって漁労や交易、社会的な交流を行うための重要な生活圏でした 。しかし、米英両国が勝手に国境線を巡って争い、最終的に島がアメリカ領と確定したことで、彼らの世界は一方的に分断されたのです。

これまで自由に行き来できた島々の間に、突如として見えない「国境」という線が引かれました。これにより、彼らは部族や家族としてのアイデンティティの選択を迫られ、伝統的に利用してきた資源へのアクセスを制限されるなど、深刻な打撃を受けました 。米英両国にとっての「平和的解決」は、先住民にとっては、自分たちの土地と生活様式が奪われ、破壊される過程の始まりに他ならなかったのです。

豚が引いた国境線

12年間にわたる奇妙な共同生活は、サンフアン島の緊張を和らげましたが、根本的な領有権問題は未解決のままでした。南北戦争という国内の大混乱を乗り越えたアメリカと、大英帝国は、ついにこの長年の懸案に終止符を打つべく、外交の舞台へと乗り出しました。

仲裁への道

1871年、米英両国はワシントン条約に調印しました。この条約には、南北戦争中に英国で建造された南軍の艦船が北軍の通商に与えた損害(アラバマ号事件)の賠償問題など、多くの懸案事項が含まれていましたが、その中にサンフアン島の領有権問題を第三者による国際仲裁に委ねるという項目も盛り込まれました 。もはや両国とも、この「豚から始まった問題」を武力で解決する意思はなく、平和的な最終決着を望んでいたのです。

仲裁人、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世

仲裁人として白羽の矢が立ったのは、意外な人物でした。それは、普仏戦争に勝利し、1871年に誕生したばかりのドイツ帝国の初代皇帝、ヴィルヘルム1世です 。なぜ、遠くヨーロッパ大陸の新興国の君主が選ばれたのでしょうか。その理由は、当時の国際情勢にありました。米英両国にとって、この問題に直接的な利害関係がなく、かつ国際的な権威を持つ中立的な存在が必要だったのです。誕生したばかりで勢いに乗るドイツ帝国とその皇帝は、その条件にまさに合致する存在でした 。

ハロ海峡が国境に

ヴィルヘルム1世は、自ら裁定を下すのではなく、3人の著名なドイツ人法学者からなる仲裁委員会を組織し、中立国スイスのジュネーブで審議を行わせました 。委員会は1年近くにわたり、両国から派遣された代表団の主張を慎重に検討しました。

アメリカの主張: 著名な歴史家であり外交官でもあったジョージ・バンクロフトが代表を務めました。彼は、当時の航海士たちが使用していた主要な海図を証拠として提出し、英国が主張するロザリオ海峡は、航行に適さない浅く危険な水路として描かれていることを指摘しました。したがって、条約が意図した「主要な海峡」とは、広く、深く、航行に適したハロ海峡以外にあり得ないと論じたのです 。

イギリスの主張: アメリカ自身が過去に作成した地図の中に、ロザリオ海峡を境界線として示唆するものがあることなどを根拠に反論しました 。しかし、バンクロフトが提示した「航行可能性」という実用的な論点の前では、やや説得力に欠けるものでした。

審議の結果、仲裁委員会は2対1の多数決でアメリカの主張を支持しました 。この報告を受け、1872年10月21日、ヴィルヘルム1世は最終裁定を下しました。国境線は、アメリカが主張した通り、ハロ海峡を通るものとする、と 。

この裁定により、サンフアン諸島は正式にアメリカ合衆国の領土となりました。1859年の豚の射殺事件から13年、そして1846年のオレゴン条約締結から26年を経て、長きにわたる国境紛争はついに終わりを告げたのです。裁定の報を受け、1872年11月25日、イングリッシュ・キャンプに駐留していた英国海兵隊は、静かに島から撤収していきました 。国境線は、一匹の豚がきっかけとなった長い回り道の末に、ようやく確定したのです。

国際問題の「しょうもなさ」と理性の教訓

「豚戦争」の顛末を振り返ると、我々はそこに国際紛争の本質を突く、いくつかの滑稽で、しかし深刻な教訓を見出すことができます。この事件は、国家間の対立がいかに些細なきっかけで燃え上がり、そしていかに馬鹿げた理由でエスカレートしうるかを示す、歴史上の一級の寓話です。

「しょうもなさ」の構造

この紛争の「しょうもなさ」は、いくつかの要素の連鎖によって成り立っています。

個人の意地: すべての始まりは、農夫カトラーと役人グリフィンの、10ドルと100ドルを巡る小さなプライドの衝突でした。もしどちらかが少しでも譲歩していれば、歴史は変わっていたかもしれません。

現場の暴走: ウィリアム・ハーニー准将のような、個人の好戦的な性格や功名心、そして偏見が、組織や国家の意思決定を飛び越えて事態を制御不能な領域へと押しやりました 。彼の独断がなければ、軍隊の出動という最悪の選択は避けられた可能性が高いでしょう。

国家の威信: 一度軍隊を派遣し、国旗を掲げてしまえば、もはや問題は豚の所有権ではなく、国家の「面子」の問題となります。後に引くことは屈辱を意味し、対立をさらに深刻化させます。豚一匹の価値は、国家の威信という天秤の前では無に等しくなってしまったのです。

これらの要素は、150年以上前のこの事件に限らず、現代の国際紛争においても形を変えて現れる普遍的なものです。SNS上での些細な言葉の応酬や、国境付近での偶発的な小競り合いが、メディアや政治家によって扇動され、国民感情を巻き込みながら、瞬く間に国家間の危機へと発展する危険性は、我々の時代にも常に存在しています。

理性の勝利という教訓

しかし同時に、この事件は暗い教訓ばかりを残したわけではありません。絶望的な状況の中にも、希望の光があったことを示しています。それは、大局を見据え、破局を回避しようと努めた「理性」の存在です。

英国海軍のロバート・ベインズ提督が、「豚一匹のために戦争はできない」と攻撃命令を拒否した勇気 。そして、米国の老将ウィンフィールド・スコット将軍が、高齢を押して大陸を横断し、粘り強い交渉の末に「共同占領」という奇策で平和を維持した外交手腕 。彼らのような、目先の感情や名誉よりも、より大きな平和を重んじる個人がいなければ、「史上最もバカバカしい戦争」は現実に起きていたかもしれません。豚戦争は、冷静な対話と外交、そして何よりも個人の理性が、暴走する国家の熱狂を食い止める力を持つことを証明したのです。

最終的に、アメリカとカナダの国境線を引いたのは、条約の難解な文言でも、軍隊の威嚇でもありませんでした。それは、一匹の豚の抑えがたい「ジャガイモへの食欲」だったのかもしれません。この歴史の皮肉とユーモアを噛みしめるとき、我々は、大国同士が繰り広げる深刻な国際政治の舞台裏に、時に信じられないほどの「しょうもなさ」が潜んでいることを、改めて思い知らされるのです。

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