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【衝撃】エイヴリー海賊王の伝説調査の真実
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【衝撃】エイヴリー海賊王の伝説調査の真実

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大海賊のGAMBIT:ヘンリー・エイヴリーと世界を揺るがしたガンズウェイ号襲撃事件

序章:世界を変えた一撃

1695年9月、インド洋。海賊フリゲート艦「ファンシー号」が、巨大なムガル帝国の船「ガンズウェイ号」に忍び寄っていた。大きさ、武装、乗員数、そのすべてにおいて「ファンシー号」は劣勢であった。しかし、その船上には計り知れないほどの富と、歴史の流れを変えるほどの大きな賭けがあった 1。両船が対峙し、緊張が最高潮に達したその時、轟音とともに事態は急変する。「ガンズウェイ号」自身の甲板で、その強力な大砲の一門が暴発したのである。この偶然の一撃は、船員をなぎ倒し、甲板を混乱の渦に陥れた。それは、後に歴史上最も儲かった海賊行為として記録される戦いの潮目を変え、ひいてはイギリスとインドの関係を永遠に変えることになる、運命の一撃であった 1。

このたった一度の海賊行為は、その首謀者であるヘンリー・エイヴリーを、わずか2年という短い活動期間にもかかわらず 4、歴史上最も悪名高い海賊の一人へと押し上げた。この襲撃は、単なる略奪行為にとどまらず、ムガル帝国とイギリス東インド会社の間に深刻な外交危機を引き起こし、 fledgling(黎明期の)貿易会社に超大国のごとく振る舞うことを強いた。そして、史上初の世界規模での国際指名手配へと発展したのである。これは、一人の男の大胆不敵な賭けが、いかにして世界中に衝撃を与え、血と財宝、そして歴史上最大の未解決ミステリーの一つという遺産を残したかの物語である。

第一部:一等航海士から「海賊王」へ

チャールズ2世号の不満分子たち

物語の始まりは、襲撃事件の前年、スペイン北部の港町ア・コルーニャに遡る。ロンドンの裕福な商人サー・ジェームズ・フーブロンが率いる投資家グループが組織した「スペイン遠征船団」という、準合法的な私掠船事業があった 6。この船団には46門の大砲を搭載したフリゲート艦「チャールズ2世号」も含まれており、スペイン国王カルロス2世の勅許を得て、西インド諸島でフランスの船舶を拿捕する任務を帯びていた 4。

しかし、計画は初めからつまずいていた。ア・コルーニャまでの航海は、通常2週間で着くところを5ヶ月も要した 6。港に到着してからも、マドリードからの正式な法的書類が届かず、船員たちはさらに数ヶ月間、港に足止めされることになった 9。船員たちの間では、自分たちは「事実上のスペインの捕虜」だという不満が渦巻いていた 9。

この長期にわたる停滞と先の見えない状況が、反乱の温床となった。海賊の黄金時代を象徴するように、この反乱は冒険心からではなく、むしろ労働争議から生まれたのである。約束の給料が支払われず、劣悪な環境に置かれた船員たちが、抑圧的なシステムに対して実力行使に出るというのは、この時代の海賊行為の根底に流れる共通のテーマであった 10。

決定的な亀裂を生んだのは、賃金の問題だった。船員たちは6ヶ月ごとに給料が支払われる契約であったが、船長のギブソンは支払いを拒否した。もし支払えば、船員たちはもはや船に縛られることなく、脱走してしまうだろうと恐れたためである 9。この約束の反故は、船員たちの怒りに火をつけた。彼らにとって、これは単なる金銭問題ではなく、尊厳をかけた闘争であった。こうして、「チャールズ2世号」の不満は、爆発寸前の火薬庫と化した。

ヘンリー・エイヴリーという男

この火薬庫に火をつけたのが、一等航海士のヘンリー・エイヴリーであった。エイヴリー(アベリーとも綴られ、ジョン・エイヴリーやベンジャミン・ブリッジマンといった偽名も使った 6)の出自は謎に包まれているが、イギリス海軍での勤務経験を持つベテラン船乗りであったことは確かである。彼はイギリス海軍の戦艦「HMSルパート」で士官候補生として勤務し 7、後には奴隷商人として活動した経歴も持つ 4。1694年、彼は「チャールズ2世号」の一等航海士として、その豊富な経験を買われていた 13。

同時代の人々によるエイヴリーの人物評は、彼の複雑な性格を浮き彫りにしている。「中肉中背で、やや太り気味、陽気な顔色」と描写される一方で 13、彼は優れた航海士であり、「大胆で気立ては良いが、時に横柄で落ち着きがなく、一度でも侮辱されれば決して許さない」という一面も持っていた 13。このカリスマ性、専門的能力、そして冷酷さの組み合わせが、不満を募らせる船員たちにとって理想的なリーダー像を形作ったのである。

無血の反乱

1694年5月7日の夜、反乱は実行された。それは周到に計画され、血を流すことなく遂行された 6。エイヴリーとその共謀者たちは、合言葉を使って別の船「ジェームズ号」の仲間を「チャールズ2世号」に引き入れた。その合言葉は「酔いどれの甲板長は乗っているか?」という、船内の雰囲気を物語るようなものであった 7。その時、ギブソン船長は病気か、あるいは泥酔して船室に閉じこもっており、抵抗する術を持たなかった 7。

この反乱劇には、エイヴリーの冷静沈着さを示す象徴的な逸話が残っている。「ジェームズ号」のハンフリーズ船長が、沖へと動き出す「チャールズ2世号」に向かって反乱が起きていると叫んだのに対し、エイヴリーは落ち着き払って「それは重々承知している」と返答したという 9。港に停泊していた「ジェームズ号」は「チャールズ2世号」に砲撃を開始したが、エイヴリーは巧みに船を操り、夜の闇に紛れて逃走に成功した 6。

船の指揮権を完全に掌握したエイヴリーは、追放されるギブソン船長にこう告げたとされる。「今や私がこの船の船長だ。私はマダガスカルへ向かい、私自身と、私に加わった勇敢な仲間たちのために富を築くのだ」 4。この言葉は、権威への反逆と、富と自由を求める海賊たちの精神を明確に示している。エイヴリーの反乱は、単なる船の乗っ取りではなく、抑圧された水夫たちが自らの運命を切り開こうとする、海賊の黄金時代の縮図であった。

ファンシー号の誕生

公海上で、船員たちは満場一致でエイヴリーを新しい船長に選出した 6。これは、海賊船がしばしば採用した民主的なプロセスであり、商船や海軍の厳格な階級社会とは対照的であった 14。船長としての最初の仕事として、エイヴリーは船名を「チャールズ2世号」から「ファンシー号」へと改名した 15。この改名は、過去との決別と、これから始まる海賊稼業への決意を象徴する行為であった。

しかし、エイヴリーは単なる船長に留まらなかった。彼は戦略家であり、技術者でもあった。彼は「ファンシー号」を、インド洋という広大な狩場で獲物を追うための究極の捕食者に改造することを命じた。船の上部構造物を大胆に取り払い、甲板を削る「レイジー化」と呼ばれる改造を施したのである 13。この改造により、「ファンシー号」は喫水が浅くなり、大幅な軽量化と高速化を実現した。後に東インド会社の船長が「彼はあまりにも俊敏で、追いつくことは到底できない」と嘆いたように、「ファンシー号」はインド洋で最も速い船の一つへと生まれ変わった 13。この改造は、エイヴリーが衝動的な無法者ではなく、長期的な視野を持って計画を練る、計算高い人物であったことを示している。彼は、広大なインド洋において、獲物を確実に捕らえるためには、火力よりも速力が決定的な武器になることを理解していた。この戦略的な判断こそが、後の歴史的な大成功の礎となったのである。

第二部:パイレーツ・ラウンドと輝ける獲物

海賊行為の新天地:パイレーツ・ラウンド

エイヴリーが目指したインド洋は、17世紀末の海賊たちにとって新たなフロンティアであった。この時代、海賊の活動は「パイレーツ・ラウンド」と呼ばれる第二段階に入っていた 18。これは、カリブ海での活動が困難になった海賊たちが、アメリカ大陸からアフリカ大陸を南下し、インド洋や紅海へと活動の場を移したことを指す。この航路は、トーマス・テューのような先駆的な海賊によって開拓されていた 18。

この地理的なシフトには、いくつかの要因があった。第一に、カリブ海ではイギリス海軍のプレゼンスが増大し、ポートロイヤルのようなかつての海賊の拠点が取り締まりを強化し始めていた 18。第二に、インド洋はヨーロッパの海軍力が及ばない、事実上の無法地帯であった 21。そして何よりも魅力的だったのは、その海域を行き交う富の規模であった。当時のインドの経済力はヨーロッパをはるかに凌駕しており、絹やキャラコといった高価な奢侈品を積んだ船は、海賊にとって理想的な獲物だったのである 21。

このパイレーツ・ラウンドにおいて、マダガスカル島は海賊たちの戦略的な拠点となった 18。ヨーロッパのどの国の支配も及ばないこの島は、長距離航海の途中で船を修理し、食料を補給し、次の襲撃計画を練るための安全な避難所を提供した。エイヴリーもまた、この海賊たちの楽園を拠点として、次なる獲物を狙っていた。

獲物:最盛期のムガル帝国

エイヴリーが狙いを定めた獲物は、単なる商船ではなかった。それは、当時世界で最も豊かで強力な国家、ムガル帝国の富そのものであった。17世紀後半、皇帝アウラングゼーブ(在位1658-1707年)の治世下で、ムガル帝国はその絶頂期にあった 22。1700年頃の帝国のGDPは、現代の価値で21兆ドルに相当すると推定され、全世界の工業生産の約25%を占めていた 24。農業税を基盤とし、ヨーロッパからの金銀と引き換えにインドの産品を輸出する経済システムは、帝国に莫大な富をもたらしていた 25。ヨーロッパ人旅行者たちが語る「偉大なるムガル」の伝説は、決して誇張ではなかった 23。

この巨大帝国を率いるアウラングゼーブは、複雑で恐るべき君主であった。彼は若い頃、暴走する戦象に槍一本で立ち向かうほどの勇敢さを示し 27、厳格で敬虔なイスラム教徒でもあった。しかし、その権力への道は血塗られていた。父である皇帝シャー・ジャハーン(タージ・マハルの建設者)を幽閉し、兄弟たちを次々と殺害して帝位を簒奪したのである 22。彼の治世は49年にも及び、帝国の領土は最大となったが、その統治は矛盾をはらんでいた。先代までの宗教的融和策を放棄し、非イスラム教徒に人頭税(ジズヤ)を復活させたことは、国内に多くの反乱の火種を生んでいた 25。また、デカン高原での数十年にも及ぶ終わりなき戦争は、帝国の財政を著しく疲弊させ始めていた 23。

エイヴリーの襲撃は、このように一見すると盤石だが、内実には財政的・政治的な緊張を抱え始めていた巨大帝国の中枢を突くものであった。それは、単に二隻の船の戦いではなく、ヨーロッパの周縁で生まれた移動的で捕食的な海賊ネットワークと、アジアの心臓部に君臨する巨大な陸上帝国の、非対称な衝突であった。海賊たちは、ムガル帝国にとって海上の安全保障が二の次であったという構造的な脆弱性を、的確に見抜いていたのである。

メッカ巡礼船団:計り知れない価値を持つ標的

エイヴリーが狙った具体的な標的は、帝国の富と権威、そして信仰の象徴であった。それは、帝国の最も裕福な港スーラトから、聖地メッカへと向かう毎年恒例の巡礼(ハッジ)船団であった 31。この船団は、何千人もの巡礼者を運ぶだけでなく、帰路には一年間の貿易で得た莫大な利益、すなわち金銀の硬貨を大量に積載していた 31。

その中でも旗艦である「ガンズウェイ号」(ペルシャ語で「ガンジ・サワーイー」、”莫大な宝”を意味する)は、アウラングゼーブ帝自身の所有物であり、帝国の威信そのものであった 1。この船を襲うことは、単なる強盗ではなく、世界最強の君主の顔に泥を塗るに等しい、極めて挑発的な行為であった。アウラングゼーブ帝の権威が、国内の度重なる戦争と宗教政策によって揺らぎ始めていた時期であったことを考えれば、この襲撃がもたらすであろう衝撃は、金銭的な損失をはるかに超えるものであった。それは、皇帝の威信に対する直接的な挑戦であり、その反響は必然的に激烈なものとなる運命にあった。

第三部:紅海の入

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