
オーストラリア軍が鳥に完敗!?歴史に残る珍事件「エミュー戦争」の全貌
「人類が鳥類に敗北した日」――。にわかには信じがたい話ですが、実際にオーストラリアで起こった奇妙な戦争の記録が残されています。相手はライオンやクマのような猛獣ではなく、オーストラリアに生息する巨大な飛べない鳥、「エミュー」でした。1932年...

アメリカ陸軍ラクダ部隊:忘れ去られた西部開拓の夢
序章:アメリカの砂漠に響いた、聞き慣れない鳴き声
1856年5月14日、テキサス州インディアナ港の住民たちは、度肝を抜かれる光景を目の当たりにした。アメリカ海軍のUSSサプライ号が投錨し、その甲板から降ろされたのは、馬でもラバでもなく、奇妙な姿をした巨大な獣たちだった。長い首、こぶのある背中、そして割れた蹄を持つその生き物は、ラクダであった。3ヶ月に及ぶ過酷な大西洋横断の船旅を終え、初めてアメリカの固い大地を踏みしめたラクダたちは、抑えきれない興奮に駆られた。「いななき、蹴り、叫び、手綱をちぎり、杭を引き抜き、その他ありとあらゆる気まぐれな芸当で、土の上の自由の喜びを表現した」と、この遠征を率いたヘンリー・C・ウェイン少佐は記録している 1。港に集まったテキサスの人々や、彼らが連れてきた馬やラバは、この異様な光景と、これまで耳にしたことのない鳴き声、そして強烈な獣の匂いに驚き、パニックに陥った 2。
この混沌とした上陸風景こそ、アメリカ陸軍の歴史上、最も奇妙で野心的な実験の一つ、「アメリカ陸軍ラクダ部隊」の幕開けを告げるものだった。メキシコとの戦争で新たに獲得した広大な南西部の乾燥地帯、いわゆる「偉大なアメリカ砂漠」における輸送問題を解決するため、陸軍は中東からラクダを輸入し、軍用の運搬動物としてその有用性を試そうとしたのである 4。この壮大な計画を推進したのは、当時陸軍長官を務め、後にアメリカ連合国大統領となるジェファーソン・デイヴィスその人であった。
この報告書は、アメリカ陸軍ラクダ部隊の構想から挫折まで、その全貌を詳細に追うものである。なぜ、一見すると極めて合理的なこのアイデアが、アメリカの歴史の中に忘れ去られてしまったのか。その背景には、一人の政治家の執念、文化的な衝突、そして国家を二分する南北戦争という巨大な歴史のうねりが存在した。この実験は、成功を収めながらも失敗に終わった奇妙なプロジェクトとして、今なおアリゾナの砂漠に立つ一つのピラミッド型の墓標と、西部開拓時代の伝説の中に、その痕跡を留めている。
第一章:「偉大なアメリカ砂漠」という難題と、ある政治家の執念
西部開拓を阻む壁
19世紀半ば、アメリカ合衆国は「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」という理念の下、急速な西方への領土拡大を遂げていた。1848年のメキシコ割譲により、現在のアリゾナ、カリフォルニア、ネバダ、ユタの全域と、ニューメキシコ、コロラド、ワイオミングの一部を含む広大な南西部がアメリカの版図に加わった 1。しかし、この新たな領土は、東部の緑豊かな土地とは全く異なる、過酷な自然環境が支配する世界であった。当時の探検家や地図製作者たちは、この地域を「偉大なアメリカ砂漠」と呼び、人の居住を拒む不毛の地と見なしていた 7。
アメリカ陸軍にとって、この広大な乾燥地帯の支配は、兵站上の悪夢であった。点在する砦への物資補給や、敵対的なインディアン部族への軍事行動は、水と牧草の極端な不足によって著しく制限された 1。軍の輸送を支えていた馬やラバは、この灼熱の環境ではすぐに疲弊し、多くの水と飼料を必要とした。実際、当時の輸送コストは莫大で、ある年の南西部における輸送費だけで50万ドル近くに達したと報告されている 14。陸軍の作戦行動は、文字通り水飲み場から水飲み場へと繋ぐか細い線に縛られており、砂漠の奥深くに逃げ込むインディアンを追跡することは不可能に近かった 1。
ラクダという解決策とジェファーソン・デイヴィスの執念
この困難な状況を打開する革新的なアイデアを提唱したのが、一部の陸軍将校たちであった。早くも1836年には、フロリダでのセミノール戦争に従軍したジョージ・H・クロスマン少佐が、ラクダの軍事利用を陸軍省に進言している 4。しかし、このアイデアが本格的に政治の舞台に登場するのは、ミシシッピ州選出の上院議員であり、後に陸軍長官となるジェファーソン・デイヴィスの強力な後押しがあってからだった 4。
デイヴィスは、自身も米墨戦争に従軍した経験から、南西部の輸送問題の深刻さを痛感していた 13。彼は、北アフリカやアジアの砂漠地帯で古くから「砂漠の船」として重用されてきたラクダこそが、この問題に対する完璧な解決策であると確信していた。ラクダは馬やラバよりも重い荷物を運べ、険しい地形を踏破し、何日も水を飲まずに活動でき、馬が食べないような棘のある灌木を食料とすることができた 13。
1851年、デイヴィスは上院軍事委員会の議長として、初めてラクダ購入のための予算案を議会に提出した。彼は、ラクダが単なる荷運びだけでなく、騎兵を乗せたり、小型の大砲を運んだりすることも可能であると、ペルシャやエジプトでの事例を挙げてその軍事的有用性を力説した 13。しかし、議会の反応は冷ややかだった。一部の議員は、山岳地帯の気候がラクダには寒すぎるのではないかと懸念し(デイヴィスはアジアのさらに寒冷な地域でのラクダの活躍を挙げて反論した)、また他の議員は、この計画が「途方もない」「滑稽である」として一笑に付した 13。デイヴィスの法案は、文字通り「委員会で一笑に付され」、否決された 1。
しかし、デイヴィスは諦めなかった。1853年にフランクリン・ピアース大統領によって陸軍長官に任命されると、彼は再びこの計画を強力に推進した 4。彼は年次報告書で繰り返しラクダ導入の利点を訴え、4年間にわたる粘り強い説得の末、ついに1855年3月3日、議会は「軍事目的のためのラクダ及びヒトコブラクダの輸入」のために3万ドルの予算を承認した 4。デイヴィスの長年の執念が実を結んだ瞬間であった。
この計画の成立過程は、それが陸軍全体の総意ではなく、ジェファーソン・デイヴィスという一人の有力な政治家の「ペット・プロジェクト」であったことを示唆している。議会での度重なる否決は、このアイデアに対する軍事的、政治的なコンセンサスが欠如していたことの証左である 1。デイヴィスが陸軍長官という強力な権限を持つ地位に就いたからこそ、この実験は実現にこぎつけた。このことは、後にデイヴィスが合衆国を去り、アメリカ連合国の大統領となった時、このプロジェクトがワシントンで擁護者を失い、容易に見捨てられる運命にあることを予兆していた 5。
さらに、このラクダ実験には、当時のアメリカが抱えるより根深い問題、すなわち奴隷制拡大の野望が影を落としていた。デイヴィスをはじめとする南部の政治家たちは、新たに獲得した南西部を、奴隷制プランテーション経済が拡大する新たなフロンティアと見なしていた 18。事実、計画の責任者であるウェイン少佐は、その報告書の中で、ラクダがプランテーションでの労働力として、奴隷によって管理される可能性について言及している 19。さらに驚くべきことに、このラクダ輸入計画は、当時非合法化されていたアフリカからの奴隷密輸の隠れ蓑として利用されようとした形跡まである。既知の奴隷商人が、ラクダの買い付けを名目にアフリカへの航海を正当化しようとしたのである 19。このように、一見奇妙で無邪気に見えるラクダ部隊の実験は、実際には、やがて国を南北戦争へと導くことになる、奴隷制を基盤とした帝国の拡大という、19世紀アメリカの暗い野心と分かちがたく結びついていたのである。
第二章:海を渡る「砂漠の船」— USSサプライ号の奇妙な航海
ジェファーソン・デイヴィス陸軍長官の長年の夢であったラクダ部隊計画は、議会の承認を得て、いよいよ実行に移されることになった。この前代未聞の任務を遂行するために選ばれたのは、二人の有能な将校であった。陸軍からは、ラクダ導入の初期からの提唱者であり、思慮深いヘンリー・C・ウェイン少佐が、海軍からは、後に南北戦争で名を馳せることになる、精力的で機知に富んだデビッド・ディクソン・ポーター大尉が任命された 4。彼らの任務は、地中海沿岸地域で最良のラクダを調達し、海軍の補給艦USSサプライ号で無事にテキサスまで輸送することであった。
ラクダ輸送のための改造船
ポーター大尉は、この奇妙な任務を知らされると、すぐさまニューヨーク海軍工廠でサプライ号の改造に着手した。彼は、この船がこれから運ぶことになる特異な「貨物」のために、徹底的な準備を行った。彼の設計は、動物たちの快適性と安全性を最大限に考慮したものであった 20。
甲板上には、全長60フィート(約18メートル)の納屋のような構造物が建設された。この「ラクダ小屋」には、ラクダを吊り上げるための特別なハッチ、換気のための通風帆、餌を入れるための干し草棚、夜間照明用の大きなランタン、そして消火用のポンプ付き水槽まで備えられていた 5。
さらにポーターは、ラクダの積み下ろしという最も困難な作業のために、独創的な装置を考案した。それは「キャメル・カー(ラクダ用車両)」と名付けられた頑丈な檻と、その檻を載せるための平底のボートであった。体重が最大2,000ポンド(約900キロ)にもなるラクダを、馬やラバのようにスリングで吊り上げるのは危険だと判断したポーターは、ラクダをこの檻に入れてから船に吊り上げる方法を考案したのである。この周到な準備は、ポーターの先見性と任務に対する真摯な姿勢を物語っている 21。
地中海での買い付け騒動
1855年6月3日、サプライ号はニューヨークを出航した。ヨーロッパでラクダに関する情報を収集していたウェイン少佐と合流したポーターは、地中海沿岸での買い付けを開始した。しかし、その道のりは珍事に満ちたものであった。
最初の寄港地チュニスでは、二人の将校はまず市場で「学習用」のラクダを一頭購入することにした。船上での飼育方法を習得してから、本格的な買い付けに臨むためであった 21。しかし、ウェイン少佐が値段を尋ねた途端、市場のラクダの価格は奇跡的に跳ね上がったという。結局、彼らは最初の言い値で一頭を購入し、その即決ぶりに競売人を驚かせた 21。
エジプトでは、さらに大きな外交的難問が待ち受けていた。当初、エジプト副王はラクダの国外持ち出しを許可しなかったが、ウェインの説得と贈り物(最新式のミニエー銃2丁)によって、最終的に10頭の輸出許可と、副王自身の群れから最高級のヒトコブラクダ6頭を寄贈するという約束を取り付けた 1。しかし、この任務を委任された下級役人たちは、約束を反故にし、病気でみすぼらしい街のラクダを寄贈品として差し出そうとした。これを見たポーターは「計算された侮辱」と激怒し、贈呈を断固として拒否した。彼の毅然とした態度が功を奏し、最終的には良質なラクダが提供されることになった 1。
最後の寄港地であるスミルナ(現在のトルコ・イズミル)では、一行はさらにラクダを買い足した。その中には、体重2,000ポンドを超える巨大なテュルクメン種(二コブラクダとヒトコブラクダの交雑種)が含まれており、ポーターはそのラクダのこぶを収めるために、サプライ号の甲板の一部を切り抜かなければならなかった 5。
異文化との出会い:ハイ・ジョリーの登場
この買い付けの旅では、動物だけでなく、それを扱う人間も集められた。ウェインとポーターは、アメリカ兵にラクダの扱い方を教えさせるため、5人のアラブ人およびトルコ人のラクダ使いを雇い入れた 15。その中に、フィリップ・テドロという名のシリア生まれの男がいた。イスラム教に改宗し、メッカ巡礼を終えていた彼は、「ハッジ・アリ」と名乗っていた。後にアメリカ人たちが彼の名前をうまく発音できず、「ハイ・ジョリー」と呼び変えたことで、彼はアメリカ西部の伝説的な人物として歴史に名を刻むことになる 24。
荒波を越えて
1856年2月15日、33頭のラクダを乗せたサプライ号は、テキサスを目指して長い帰路についた。87日間に及ぶ大西洋横断は、激しい嵐に見舞われる過酷なものであった 20。しかし、ポーターの献身的な世話と、彼が定めた詳細な「ラクダ甲板の規則と規定」のおかげで、ほとんど
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