それは、ソフトボールほどの大きさでありながら、2人の天才物理学者の命を奪った、呪われたプルトニウムの塊だった――。
その名は「デーモン・コア(悪魔の核)」。
もともとは日本に投下されるはずだった第3の原子爆弾の心臓部。終戦によってその役目を失ったはずのコアは、なぜ科学者たちを死に至らしめる「悪魔」と化したのか?
「竜の尾をくすぐる」と称された、常軌を逸した危険な実験。その果てに待っていた2つの臨界事故の真相と、科学史に刻まれた悲劇の遺産に迫ります。
「デーモン・コア」の起源:日本に落とされるはずだった「第3の核」
「デーモン・コア」は、第二次世界大戦中、米国の原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」の一環として1945年に製造されました。
その正体は、総重量6.2kg、直径8.9cmのプルトニウム・ガリウム合金の球体。当初は、広島・長崎に続く第3の原子爆弾の核分裂性コアとして、日本に対して使用される予定でした。しかし、日本の降伏によってその役目はなくなり、コアはニューメキシコ州のロスアラモス研究所で、実験と研究のために保管されることになったのです。
兵器から実験装置へ。この目的の変更が、後に悲劇を生む運命の分かれ道となりました。
パラメータ | 値/説明 |
材質 | プルトニウム・ガリウム合金 |
総重量 | 6.2 kg (14 lb) |
直径 | 8.9 cm (3.5 in) |
当初の目的 | 第3の原子爆弾用コア |
「竜の尾をくすぐる」― 命がけの臨界実験 💥
ロスアラモス研究所の科学者たちにとって、デーモン・コアは核分裂の謎を探るための貴重な研究対象でした。彼らが行っていたのは、核分裂性物質が核分裂の連鎖反応を維持し始めるギリギリの状態、すなわち臨界にいかに近づけられるかを確かめる実験でした。
この実験は、そのあまりの危険性から「竜の尾をくすぐる(Tickling the Dragon’s Tail)」という不気味なニックネームで呼ばれていました。
実験方法は、信じがたいほど原始的で危険なものでした。科学者たちは、デーモン・コアの周りに中性子を反射するブロックを手で積み上げたり、反射材でできたお椀状の半球をなんとマイナスドライバー1本で支えながら、コアにギリギリまで近づけたりしていたのです。
ほんのわずかな手の滑りが、即座に臨界状態を招き、致死量の放射線を放出する。まさに、眠れる竜の尾を指先でくすぐるような、命がけの作業でした。
最初の悲劇:ハリー・ダリアンの事故 (1945年8月21日)
最初の犠牲者は、24歳の若き物理学者ハリー・ダリアンでした。
1945年8月21日、彼はデーモン・コアの周りに、中性子反射体である炭化タングステンのレンガを積み上げる実験を、たった一人で行っていました。その時、彼の手が滑り、最後のレンガがコアの上に落下。コアは瞬時に超臨界状態に達し、強烈な中性子線が閃光のように迸りました。
ダリアンはとっさにレンガを叩き落とし、反応を止めましたが、すでに手遅れでした。彼は推定5.1シーベルトという致死量をはるかに超える放射線を浴び、重度の放射線熱傷と急性放射線症候群に苦しんだ末、事故から25日後に亡くなりました。臨界事故による、史上初の犠牲者でした。
第二の惨事:ルイ・スローティンの英雄的犠牲 (1946年5月21日)
ダリアンの死からわずか9ヶ月後、悪魔は再び牙を剥きます。
1946年5月21日、物理学者ルイ・スローティンは、7人の同僚が見守る前で、デーモン・コアを使った臨界実験のデモンストレーションを行っていました。彼は、ベリリウム製の半球(反射体)を、マイナスドライバーの先端で巧みに支えながらコアに近づけていました。
その瞬間、ドライバーが滑り、上の半球が落下してコアを完全に覆ってしまいます。再び、コアは即発臨界に達し、部屋は青い閃光と熱波に包まれました。
スローティンは、自らが致死量の放射線を浴びたことを瞬時に悟ります。しかし彼は、本能的に飛びかかり、素手で上の半球を掴んで引き剥がし、連鎖反応を停止させたのです。この英雄的な行動は、部屋にいた同僚たちを最悪の事態から救いましたが、彼自身の命と引き換えでした。
スローティンは推定10シーベルト以上という凄まじい量の放射線を浴び、事故からわずか9日後に壮絶な苦しみの中で亡くなりました。彼もまた、科学の進歩のためにその身を捧げた犠牲者となったのです。
特徴 | ダリアン事故 (1945年) | スローティン事故 (1946年) |
主要物理学者 | ハリー・ダリアン | ルイ・スローティン |
エラーの性質 | 反射体のレンガを落下 | ドライバーが滑る |
推定被曝線量 | 約5.1 Sv | 約10-21 Sv |
転帰 | 25日後に死亡 | 9日後に死亡 |
2つの死が変えたもの:安全対策へのパラダイムシフト
同じコアが9ヶ月のうちに2度も致命的な事故を起こしたことで、このプルトニウム球は「デーモン・コア」という不吉な名で呼ばれるようになります。
特にスローティンの死は、ロスアラモス研究所に大きな衝撃を与え、ついに手作業による臨界実験は全面的に禁止されました。以降の実験は、遠隔操作やより堅牢な安全装置を用いて行われるようになり、核研究における安全対策は大きなパラダイムシフトを迎えることになります。
デーモン・コア自体は、これ以上の実験は危険すぎると判断され、1946年の夏に溶融。そのプルトニウムは他の核兵器の材料としてリサイクルされました。
結論:デーモン・コアが科学史に残した深い傷跡
デーモン・コアの物語は、核時代の黎明期における、科学の進歩とそれに伴う計り知れない危険性を象徴しています。それは、知識の探求という崇高な目的が、時に取り返しのつかない人的犠牲の上で成り立っていたという厳しい現実を私たちに突きつけます。
ハリー・ダリアンとルイ・スローティンの死は、その後の核研究における安全プロトコルの礎となりました。彼らの犠牲は決して無駄ではありませんでしたが、その代償はあまりにも大きなものでした。
「デーモン・コア」の名は、科学の進歩の裏に潜む危険性と、人類が手にした力の重さを戒める、永遠の教訓として科学史に深く刻まれています。
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