第1章:クライストチャーチの公式魔法使い
現代の西洋都市が20年以上にわたり公式に魔法使いを雇用し、給与を支払っていたというおとぎ話のような事実があることをご存じでしょうか。しかし、ニュージーランドのクライストチャーチ市では、これは紛れもない事実でした。その中心にいたのがイアン・ブラッケンベリー・チャンネル、通称「ザ・ウィザード」です。1998年から2021年までの23年間、クライストチャーチ市議会は彼との間に、「クライストチャーチ市のプロモーション活動の一環として、魔法の行為およびその他魔法使いらしいサービスを提供する」という内容の契約を結んでいました。
この契約に基づき、彼には年間16,000ニュージーランドドル(NZD)の給与が非課税で支払われ、契約期間中の総支給額は368,000 NZDに達しました。このユニークな公的地位は、彼を世界で唯一の、国家に任命され給与を受け取る魔法使いとして国際的な注目を集める存在にしたのです。しかし、この一見奇妙な取り決めは、単なるプロモーションだけではありませんでした。それは都市のアイデンティティを形成するための計算された長期的な投資だったのです。市は「魔法」そのものに対価を支払っていたのではなく、数十年にわたって『ロード・オブ・ザ・リング』による観光ブームが起こるずっと以前から、世界的に認知された唯一無二のブランド・アイデンティティに対して投資していたのです。この契約は既に成功を収めていた市のマーケティング資産を、極めて費用対効果の高い方法で公式化し、維持するための現実的な財務判断であり、それが給料と形で支払われていたに過ぎません。
表1:市民の魔術師の年代記:魔法使いのキャリアにおける主要なマイルストーン
以下の表は、イアン・ブラッケンベリー・チャンネルの50年以上にわたるキャリアの重要な出来事を時系列でまとめたものです。彼の地位がどのように進化し、一人のパフォーマーから市の公式な象徴へと変貌を遂げたかを示しています。
| 年 | 出来事 | 意義 |
| 1932 | イアン・ブラッケンベリー・チャンネル、ロンドンで誕生。 | 魔法使いとなる人物の生涯の始まり。 |
| 1963 | リーズ大学で心理学と社会学の優等学位を取得。 | 後のパフォーマンスの知的・哲学的基盤を形成。 |
| 1969 | ニューサウスウェールズ大学(UNSW)の公式魔法使いに任命される。 | 初めて「魔法使い」という公的な役割を得る。 |
| 1974 | クライストチャーチに移住し、大聖堂広場で活動を開始。 | ニュージーランドでの伝説の始まり。 |
| 1982 | 「生きる芸術作品(Living Work of Art)」と公式に認定される。 | 彼の存在が芸術として公的に認められ、正当化される。 |
| 1990 | マイク・ムーア首相により「ニュージーランドの魔法使い」に任命される。 | 市の有名人から国家的な象徴へと昇格。 |
| 1998 | クライストチャーチ市と年間16,000 NZDの有給契約を締結。 | 彼の役割が公式に収益化され、市のプロモーション資産として制度化される。 |
| 2009 | 地域社会への貢献により女王功績メダル(QSM)を授与される。 | 国家からの最高レベルの栄誉を受ける。 |
| 2011 | カンタベリー地震後、歴史的建造物の保存運動で重要な役割を果たす。 | 市の良心としての役割を担い、市民との絆を深める。 |
| 2021 | 23年続いた市との契約が終了。 | 一時代の終わりと、彼のレガシーに関する議論の始まり。 |
第2章:社会学者から魔術師へ:公的人格の創生
彼が魔法使いとなったのは突発的な思いつきではなく、彼の学問的・哲学的探求が時間をかけて進化した結果でした。イアン・ブラッケンベリー・チャンネルは1932年にロンドンで生まれ、英国空軍の航法士として従軍した後、リーズ大学で心理学と社会学の優等学位を取得しました。この学問的背景は、後に彼が展開するパフォーマンスアートの知的基盤を形成することになります。
彼のキャリアの転換点は、オーストラリアのニューサウスウェールズ大学(UNSW)で社会学のティーチングフェローとして教鞭をとっていた時期に訪れました。彼はその型破りな思想で知られ、魔法、哲学、そして状況主義的なパフォーマンスアートを融合させた独自の世界観を構築し始めたのです。しかし、博士論文の「進捗不足」を理由に大学から解雇されるという事態に見舞われます。この挫折が彼をアカデミアの世界から完全にパフォーマンスの世界へと押し出す決定的な契機となりました。
大学を追われた彼は、しかし、そこから独自の道を切り開きます。彼は「愛と自由のための行動(Action for Love and Freedom, ALF)」と名付けた運動を立ち上げ、「ファン革命(The Fun Revolution)」を実践しました。これは、深刻な政治活動への対抗として、非暴力的で扇情的なキャンパスでのハプニングを仕掛けるものでありました。この活動が大学当局の目に留まり、1969年、UNSWの副総長と学生組合は彼を大学初の公式「魔法使い」に任命しました。これは事実上のイベント担当官であり、彼が社会実験を続けるための公的な隠れ蓑となったのです。
さらに、彼の存在を決定的に定義づけたのが、自身の体をビクトリア国立美術館に「生きる芸術作品(Living Work of Art)」として寄贈したことでありました。この称号は後にクライストチャーチのロバート・マクドゥーガル美術館に移管されます。この「芸術作品」という地位は、彼を一般市民の規範から解放し、後に国勢調査の回避など、常識外れの行動を正当化するための強力な論理的根拠となりました。魔法使いとしての彼のふるまいは単なる仮装ではなく、社会学理論の実践そのものでありました。それは意図的に構築されたアイデンティティであり、社会の規範や官僚主義に挑戦するための長期的な実験だったのであります。彼は魔法使いの「ふり」をしていたのではなく、「魔法使い」という社会的役割を演じ、それに対する世界の反応を50年以上にわたって観察し続けるという、壮大なパフォーマンスアートを実践していたのです。
第3章:大聖堂広場の征服:一人の挑発者がいかにして街の象徴となったか
1974年、チャンネルはニュージーランドのクライストチャーチに移住し、彼の伝説の新たな章が始まりました。彼は街の中心である大聖堂広場に梯子を立て、そこから公衆に向けて演説を始めたのです。当初、クライストチャーチ市議会は、この奇妙な闖入者を単なる厄介者とみなし、逮捕しようと試みました。しかし、チャンネルは当局との「いたちごっこ」を楽しんだのです。彼は意味不明の言葉(ゴブルディグック)で話したり、ガスマスクを着用して演説したりすることで、規制を巧みに回避しました。
彼のユニークなパフォーマンスと権威に屈しない姿勢は、次第に市民の心を掴んでいきました。彼を排除しようとする市議会の動きに対して、市民からの抗議の声が上がったのです。この圧倒的な民意を前に、市議会はついに折れ、大聖堂広場を公式な公共演説エリアとして指定するという、180度の方向転換を余儀なくされました。これは魔法使いの完全な勝利であり、彼がクライストチャーチの心臓部に確固たる地位を築いた瞬間でした。
その後、彼は街の日常風景に欠かせない存在となりました。夏の間、昼休みになると広場に現れ、地元住民や観光客を楽しませました。時には、「バイブル・レディ」として知られる他の地元の名物キャラクターと、友好的な言葉の応酬を繰り広げることもありました。彼のクライストチャーチでの成功は、決して偶然ではありませんでした。伝統的に「英国的」で保守的とされるこの街の雰囲気こそが、彼の奇抜な挑発行為にとって効果的な背景となりました。もしクライストチャーチが元々エキセントリックな街であったなら、彼は数多いる変人の一人に過ぎなかったかもしれません。しかし、この街の堅苦しいイメージを背景にすることで、彼の存在はより際立ち、市民が内に秘めていた遊び心や反骨精神の象徴となりました。彼は街が必要としていた非日常的な刺激を提供し、街は彼に理想的な舞台を提供しました。こうして、両者の間には共生関係が生まれ、一人の挑発者は街の象徴へと昇華していったのであります。
第4章:公的スペクタクルの魔道書:魔法使いらしい活動の記録
魔法使いの「職務」は、単なる演説にとどまりませんでした。彼の活動は、街全体を巻き込む壮大なパブリック・シアターであり、その一つ一つがクライストチャーチの現代史に刻まれる伝説的なエピソードとなりました。
4.1 南半球の雨乞い師
彼の最も有名な「魔法」は、干ばつに見舞われた地域で雨を降らせる儀式でした。深刻な水不足に悩むワイマテ、ネルソン、オークランド、さらにはオーストラリアのタムワースの議会から、彼は公式に雨乞いの儀式を依頼されました。儀式は一大スペクタクルでありました。彼は水の入った4つのバケツ、ホルン、そして大きなバスドラムといった道具を使い、独特の詠唱と共に踊ったのです。
その結果は驚くべきものでした。ワイマテでは、儀式の直後に奇妙な黒い雲が現れ、地元の農業祭が中止になるほどの大豪雨が降り注ぎました。その夜の全国ニュースの天気予報士は、「信じられないでしょうが…」という言葉でレポートを始めたといいます。ネルソンでは、儀式の3日後に降り始めた雨で、貯水池は満杯になったのです。これらの成功は『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられるなど、国際的なニュースとなりました。彼は成功の要因を尋ねられると、ネルソンの事例では「英国国教会の神にも感謝すべきだろう」と謙虚に(そしてユーモラスに)語り、功績を分かち合いました。
4.2 赤い公衆電話ボックスの戦い
1988年、彼は美的センスに基づいた市民的不服従の戦いを繰り広げました。ニュージーランド・テレコムが、象徴的だった赤い公衆電話ボックスを味気ない青色に塗り替え始めた時、彼は「テレコムの無味乾燥な圧制者」に立ち向かったのです。彼は自らの手で、ボックスを伝統的な赤色に塗り戻し始めました。この「戦い」は12日間にわたって続き、メディアの注目を集めました。
驚くべきことに、かつての敵であったクライストチャーチ市議会が、この戦いで魔法使いの側に立ったのです。市議会はテレコムに対し、ボックスが立っている公有地の賃料を請求すると脅し、さらには魔法使いに赤いペンキを供給することさえ可決しました。これは、彼と市当局との関係が、敵対者から同盟者へと大きく転換したことを示す象徴的な出来事でした。
4.3 透明人間 対 国勢調査
魔法使いは、官僚主義との数十年にわたる闘争も繰り広げました。彼は、自身が「生きる芸術作品」であり、政府によって数えられるべき「実在の人物」ではないと主張し、義務付けられている国勢調査への回答を一貫して拒否しました。
ある国勢調査の日、彼は自分自身に「姿を消す呪文」をかけました。この件で法廷に召喚された際、裁判官は「街の平均的な人物であれば、魔法使いは隠れていると判断しただろう」という、ウィットに富んだ判決を下しました。さらに驚くべきは、国会議員、市長、聖職者、そして地元のカンタベリー・ラグビーチームの全選手を含む彼のファンたちが、「彼は本当に消えたと信じている」という内容の請願書を国会に提出したことです。この驚異的な民意の表明を受け、統計局はついに彼を追及することを断念しました。
4.4 失敗した呪文とラグビーの呪い
彼の魔法が裏目に出たとされる事件もあります。彼は地元の強豪、カンタベリー・ラグビーチームのために勝利の呪文をかけることで知られていました。しかし1984年、彼の「かけ間違えた呪文」が、チームの長年の連勝記録を止める壊滅的な敗北を招いたと非難されたのです。
名誉を重んじる魔法使いは、名誉職からの辞任を申し出ました。しかし、市議会と市民は彼の辞任を許しませんでした。彼を引き留めるために「ウィザードソン(Wizardathon)」と名付けられたイベントが開催され、彼の活動を支援するための信託基金まで設立されたのです。この一連の出来事は、彼が単なるエンターテイナーではなく、市民の精神的な支柱として、いかに深く街の心に根ざしていたかを物語っています。
これらのエピソードは、彼がメディアと広報を巧みに操る達人であったことを示しています。彼の「魔法」とは、自身を主人公とする魅力的な物語を公の場で創り出し、コミュニティを巻き込み、自らの神話を強化する能力にあったのです。雨乞いの儀式も、電話ボックスの戦いも、国勢調査との闘争も、すべてが明確な物語構造を持つ演劇でした。たとえラグビーの呪いのような「失敗」でさえも、市民の彼に対する愛情と重要性を再確認させるという形で、最終的には彼の成功へと転化されたのであります。
第5章:公衆芸術から公僕へ:公式任命への道
街頭のパフォーマーであった魔法使いは、徐々にその地位を上げ、国家的な重要人物へと変貌を遂げていきました。その道のりは、彼がクライストチャーチの制度に吸収され、公式なアイデンティティの一部となっていく過程でもありました。
1980年、カンタベリー振興協議会は彼を「カンタベリー公式大魔法使い」に任命しました。これは、彼の存在が地域のプロモーションに貢献する価値あるものであると、初めて公的機関が認めた瞬間でした。続いて1982年、ニュージーランド美術館館長協会が、彼を公式に「正真正銘の生きる芸術作品」であると宣言しました。これにより、彼が自称してきた特異なステータスに、芸術界からの権威あるお墨付きが与えられたのです。
彼の地位を決定的に高めたのは、1990年の出来事です。旧知の仲であった当時の首相マイク・ムーアが、首相官邸の公式なレターヘッドで、彼を「ニュージーランドの魔法使い」に任命する布告を発したのです。ムーア首相は手紙の中で、「貴殿の魔法が国家全体のために活用されないことを懸念している」と記し、彼の役割を市レベルから国家レベルへと引き上げました。
そして2009年、彼の長年にわたる地域社会への貢献が最高レベルで認められ、女王功績メダル(QSM)が授与されました。一人の奇抜なパフォーマーが、国家元首の名において栄誉を授かるに至ったのです。
この20年以上にわたる段階的な公認プロセスの集大成が、1998年のクライストチャーチ市との契約締結でした。24年間も無料でサービスを提供してきた彼に対し、市はついに年間16,000 NZDの給与を支払うことを決定しました。これは新たな関係の始まりというよりは、長年かけて築き上げられてきた現実を公式に追認する行為でした。彼の旅路は、当初は挑発の対象であった既存の権力構造に、最終的には完全に取り込まれるという稀有な事例を示しています。街の厄介者から始まり、市民の支持を得て、芸術界や政府に認められ、ついには当初の敵であった市議会から給与を受け取る公僕となったのです。彼の反逆は、国家公認の観光名物へと見事に昇華したのであります。
第6章:解かれた呪文:論争、契約解除、そして魔法使いの怒り
魔法使いとクライストチャーチ市の蜜月関係は、21世紀に入り、時代の変化とともに終わりを迎えることになりました。街の文化的な風景が移り変わる中で、彼の存在は徐々に過去の遺物と見なされるようになっていったのです。
クライストチャーチ市は、新たな観光戦略として、「活気に満ち、多様で、現代的な都市」というイメージを打ち出そうとしていました。この新しいビジョンの中で、年老いた風変わりな魔法使いは、もはや「街の雰囲気に合わない」時代錯誤な存在と見なされるようになったのです。近年、彼の公の場への登場回数が減少していましたが、彼自身はその理由を、市議会が自分を「見えない存在」にし、観光改善に関する提案を無視したためだと非難していました。
そして2021年4月、彼の運命を決定づける出来事が起こります。コメディニュース番組『New Zealand Today』に出演した際、当時88歳だった魔法使いは、女性蔑視的と受け取られるいくつかの冗談を口にしました。彼は、女性は「ずる賢さを使って頭の鈍い男を手に入れる」と冗談を言い、「女性はすぐにアザができるし…近所に言いふらすから、決して叩いてはいけない」と発言したのです。現代のメディア環境で放映されたこれらのコメントは、到底受け入れられるものではなく、市議会にとって、厄介な存在となりつつあった彼との関係を断ち切るための明確な口実となりました。
契約終了の通知は、市議会からの一通の手紙によって彼に伝えられました。彼の反応は、怒りと反抗に満ちたものでした。彼は市議会の決定を猛烈に批判し、彼らを「退屈な年寄り官僚」と呼び、「私が退屈で年寄りだと言いたいのだろうが、クライストチャーチに私のような人間は他にいない…みんなは私を好きだが、誰も彼らを好きではない」と反論したのです。
彼は引退を拒否し、この騒動が「スズメバチの巣を覚醒させた」ようなもので、市民の支持を再び活性化させたと主張し、「今後数ヶ月は本当に楽しくなるだろう」と宣言しました。市議会を呪うかと問われた彼は、それを否定し、むしろ彼らが「もっと人間らしくなるように」という「祝福」を与えたいと語りました。
この契約解除劇は、二つの時代の公の言説が根本的に衝突したことを象徴しています。1960年代から70年代の、より自由で挑発的なカウンターカルチャーの中で形成された彼のペルソナは、21世紀の社会的な感受性に適応することができませんでした。彼が「キャンセル」されたのは、特定のコメントだけが理由ではなく、彼の挑発のスタイルそのものが、もはや市の機関によって容認されなくなった、過ぎ去りし時代の遺物であったからなのです。彼が問題を理解できず、自らの言葉を省みることなく「退屈な官僚」のせいにしたことは、彼と現代社会との間に横たわる、埋めがたい世代的・文化的ギャップを浮き彫りにしました。
第7章:永続する魔法:レガシーと後継者
クライストチャーチ市との公式な契約は終了しましたが、魔法使いが街にかけた「呪文」は、決して解けることはありません。彼の存在は、市の歴史そのものに深く刻み込まれています。市議会の関係者でさえ、契約終了時に彼は「永遠にクライストチャーチの歴史の一部であり続けるだろう」と認めています。
彼の街への貢献は、単なるエンターテイメントにとどまりません。2011年に発生したカンタベリー地震で街が壊滅的な被害を受けた際、彼は歴史的遺産の擁護者として重要な役割を果たしました。クライストチャーチ大聖堂をはじめとする歴史的建造物の取り壊しに反対する抗議活動の先頭に立ち、街の良心としての存在感を改めて示したのです。公式な解雇にもかかわらず、彼はクライストチャーチ・アートセンターに定期的に姿を現し、契約を超えた自身の役割への個人的な献身を示し続けています。
そして、彼の物語は終わりではありません。新たな章が始まろうとしています。数十年にわたる探索の末、魔法使いはついに後継者を見つけました。5年前、彼は33歳のミュージシャン、アリ・フリーマンを弟子として迎え入れたのです。フリーマンは子供の頃に初めて魔法使いに出会い、「言葉は魔法である」という信念を共有しています。彼は、サイケデリック・ファンクやブルースといった自らの音楽を「魔法」と位置づけ、公衆と関わることで、新世代の魔法使いとしてその伝統を引き継いでいるのです。
イアン・ブラッケンベリー・チャンネルの非凡な旅は、学問の世界からの追放者に始まり、生きる芸術作品、公式な街の象徴、そして最後には物議を醸す時代の遺物へと至りました。公式な契約は終わったかもしれませんが、彼がクライストチャーチに与えた影響は永続的です。彼は自らを、市という織物に深く織り込まれた生きた神話、民話の一部へと変貌させることに成功しました。いかなる議会の決定も、彼を真に消し去ることはないでしょう。
後継者を指名したことは、彼の最後のそして最も偉大なパフォーマンスアートであったと言えます。それは彼個人のプロジェクトを永続する遺産と制度へと昇華させる行為なのです。後継者を確保することで、彼は「クライストチャーチの魔法使い」という存在が、イアン・ブラッケンベリー・チャンネルという個人を超えて生き続けることを保証しました。それは、神話におけるマーリンとアーサーのような師弟関係を意識的に模倣し、彼のパフォーマンスと「本物」の魔法の伝統との境界線をさらに曖昧にするのです。この後継計画こそが、彼の生涯をかけた仕事の最終的な証明であり、1969年に彼がゼロから創り出した役割が、彼一人では決して成し得なかった不滅性を獲得し、ニュージーランドの文化的神話として永遠に語り継がれることを確実にしたのです。

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