序論:想像を絶する恐怖の発見
1880年6月25日、米国税関監視船トーマス・コーウィン号がセントローレンス島の沖合に投錨したとき、その乗組員たちはこれから目撃する惨状を予測していなかったでしょう。カルビン・L・フーパー船長が率いるこの船の任務は多岐にわたっていました。行方不明となった探検蒸気船ジャネット号と2隻の捕鯨船の捜索、アラスカ先住民との交易の監督、そして違法なウイスキーと銃器の密輸の阻止でした。しかし、彼らが島で発見したのは、任務リストにはない、想像を絶する規模の悲劇だったのです。
上陸隊が目にしたのは、死の世界でした。かつては活気に満ちていたであろう村々は完全に打ち捨てられ、家屋の内外には埋葬されることのない遺体が散乱していました。フーパー船長の公式報告書は、その恐怖を生々しく伝えています。ある大きな家屋では、「薪のように積み重ねられた約15体の遺体」が発見され、別の村では「200人の死者」が確認されたと記されています。この謎は、「数千年もの間、この厳しい環境で繁栄してきた人々が、なぜこれほど完全かつ突然の崩壊に見舞われたのか?」という問いを、読者に投げかけます。
コーウィン号の航海日誌は、この悲劇の余波を記録した最も詳細な文書であり、その点で計り知れない価値を持ちます。しかし、それは本質的に外部の視点から書かれたものです。フーパー船長は、この大惨事の原因を、交易商人が持ち込んだ酒に溺れた先住民たちが「通常の食料備蓄を怠った」ことにあると結論づけました。この解釈は、19世紀の西洋社会が先住民に対して抱いていた道徳的偏見を色濃く反映した、単純な因果関係に基づいています。しかし、他の記録は、より複雑な状況を示唆しています。生存者たちが語った「奇妙な天候」、外部から持ち込まれた伝染病、そして商業捕鯨船による海洋生物資源の乱獲など、複数の要因が絡み合っていたことがうかがえます。したがって、コーウィン号の報告書は最終的な答えではありませんでした。本記事では歴史を紐解くことで、様々な角度から検証し、この悲劇の真相に迫っていきたいと思います。
第1部:失われた世界 – 惨劇以前のシヴカックでの生活
セントローレンス島(ユピク語でシヴカック)で起きた崩壊の深刻さを理解するためには、まず、その惨劇以前に存在した、洗練され持続可能であったユピク族(シヴカックミート)の文化を理解する必要があります。
荒海に刻まれた深い歴史
セントローレンス島における人類の居住の歴史は、2,000年から2,500年前に遡ります。オクヴィック文化やプヌーク文化といった、異なる文化が次々とこの地に足跡を残してきました。考古学的調査から、過去にも飢饉の時期があったことが示唆されており、居住と放棄のサイクルはこの島の歴史の一部でした。しかし、19世紀半ばには、島全体で約4,000人もの人々が複数の村で暮らし、安定した社会を築いていました。このことは、1878年の出来事が、過去の困難とは比較にならない未曽有の規模であったことを物語っています。
生存のリズム:動物世界との契約
彼らの生活の基盤は、季節ごとの狩猟採集サイクルでした。特にセイウチやクジラといった海洋哺乳類の狩猟は最重要であり、その他に漁業や鳥猟が食生活を支えていました。この生存活動は、単なる食料確保以上の意味を持っていました。それは陸と海との関係性の延長であり、複雑な儀式によって律せられていたのです。ユピクの世界観はアニミズムに基づき、動物には魂が宿り、敬意をもって扱われなければならないと信じられていました。
この精神性を象徴するのが、「美しい武器」で狩りを行うという慣習です。精巧に彫刻された象牙の銛先や、セイウチの姿が彫られた狩猟用のバイザーなどの道具は、単なる装飾品ではありませんでした。それらは動物の魂を敬い、動物が自らを狩人に「与える」ことを確実にするための、儀礼的な意味合いを持っていたのです。これは、自然を支配するのではなく、相互的な関係性を築くという彼らの哲学を体現しています。
このユピクの精神世界は、単なる文化的な特徴に留まりません。それは、科学以前の時代における、極めて効果的な資源管理システムとして機能していました。持続可能な慣行を、相互性と敬意という精神的な枠組みの中に埋め込むことで、乱獲に対する強力な社会的抑制を生み出していたのです。ユピクの口承伝承が1878年の悲劇を「敬意の欠如」と結びつけていることは、このシステムの重要性を物語っています。この「敬意の経済」こそが、彼らの長期的な生存を支える哲学的かつ実践的な基盤でした。象牙を商品として取引する、純粋に収奪的な経済の導入は、この基盤そのものへの攻撃であり、セイウチが乱獲されるずっと以前から、彼らの文化を脆弱なものにしていたのです。
社会の織物:共同体と協力
シヴカックミートの社会構造は独特であり、他のイヌイット社会には見られない氏族(ラムケ)制度が存在しました。共同生活は、男性の家である「カシギ」と女性の家である「エナ」を中心に営まれていました。カシギはコミュニティセンターとしての役割も果たし、少年たちが狩猟技術や社会的な役割を学ぶ教育の場でもありました。これにより、伝統的な知識が世代から世代へと確実に受け継がれていました。食料の分かち合いは生存に不可欠な慣習であり、優れた狩人(ヌカルピアット)は高い地位を与えられ、しばしば集団の指導者となりました。この共同体主義的な精神が、厳しい環境を生き抜くための重要な防衛機構であったのです。
第2部:嵐の予兆 – 混乱をもたらした者たち
19世紀半ば、アメリカの捕鯨船と交易商人の到来は、セントローレンス島の安定した世界に破壊的な変化をもたらしました。彼らが持ち込んだ技術、経済、そして社会的な影響は、来るべき悲劇の土壌を整えたのです。
浮遊する工場:捕鯨船団による生態系の破壊
1848年に最初の米国捕鯨船がベーリング海峡を通過して以降、大規模な船団がこの海域に押し寄せました。これらの船は、生存のためではなく、ランプ用の鯨油やコルセット用のクジラのひげといった商品を求める産業的な事業でした。彼らによるホッキョククジラとセイウチの無差別な乱獲は、ユピク族の主要な食料源を壊滅的に減少させ、飢饉の生態学的な前提条件を作り出しました。
交易人の帳簿:象牙、ライフル、そして「火の水」
捕鯨船員や交易商人は、全く新しい経済システムを島に持ち込みました。彼らは土産物や原材料として象牙を求め、島の伝統的な彫刻文化を変容させました。ユピクの彫刻家たちは、杖や塩コショウ入れといった非伝統的な品々を制作し始め、作品に署名をするようになりました。これは、共同体にとって意味のある物から、市場で取引される商品へと、その価値観が変化したことを示しています。 その見返りとして、交易商人は多くの新しい商品をもたらしましたが、中でも連発式の銃器とアルコールは特に破壊的な影響を与えました。特にウイスキーの取引は悲惨な結果を招きました。「火の水」や「フープアップ・ジュース」と呼ばれる粗悪な蒸留酒が島に溢れたのです。アラスカ法(1868年)により先住民への酒類販売は違法とされていましたが、広大な海域での取り締まりは事実上不可能でした。交易商人は監視船が近づくと密輸品を海に投棄して容易に逃れました。この取引は伝統的な生活を破壊し、アルコール依存という新たな問題を生み出したのです。
技術の罠:連発ライフル対銛
スペンサー銃やウィンチェスター銃といった、南北戦争で開発された最新の連発ライフルが島にもたらされました。これらの武器は、1分間に20発もの発射が可能であり、従来の狩猟方法とは比較にならない驚異的な射撃速度を誇りました。 これに対し、伝統的なセイウチ猟は、先端が外れる構造の銛(トグルヘッド・ハープーン)を、アザラシの皮で作った浮き袋(ポーク)に繋いで用いるものでした。この方法は多大な労力を要し、大型の皮舟(ウミアック)に乗った乗組員全員の協力が不可欠でした。まず獲物を確保し、それからとどめを刺すことで、損失を最小限に抑えることを目的としていたのです。
一方、ライフルは一人の狩人が遠距離から素早く複数の動物を殺すことを可能にしました。しかし、この効率性は大きな代償を伴いました。水中で撃たれた動物は確保される前に沈んでしまうことが多く、また、象牙だけを目的とした大量殺戮を助長しました。牙を抜き取られた死骸が放置されるという行為は、伝統的な「敬意の経済」の下では考えられない冒涜でした。 連発ライフルは単なる優れた道具ではありませんでした。それは、ユピクの人々を、捕鯨船や交易商人が作り出した破壊的な商品経済に参加させるための触媒であったのです。ライフルの効率性は、銛では想像もできなかった工業的な規模での象牙の収穫を可能にしました。この新しい技術(ライフル)と新しい経済的インセンティブ(象牙取引)との相乗効果が、伝統的で持続可能であった狩猟のパラダイムを粉砕したのです。伝統的な狩猟システムは、その技術(銛)によって物理的に制限され、その精神的な枠組み(「敬意の経済」)によって社会的に規制されていました。交易商人が動物の一部である象牙に高い価値を付けたことで、浪費が奨励されたのです。そして、連発ライフルが、この新たな需要を満たすための技術的手段を提供しました。これにより、狩人は共同体が生存のために必要とする量をはるかに超える動物を殺すことが可能になったのです。ライフルは、収奪的な経済のための「実現技術」として機能し、古いシステムの物理的・社会的限界を打ち破り、アルコールや弾薬といった交易品を求める中で、狩猟を維持不可能なレベルにまでエスカレートさせる悪循環を生み出したのです。
企業の独占:アラスカ商業会社
1868年にロシア・アメリカ会社の資産を引き継いだアラスカ商業会社(ACC)は、この地域の交易をほぼ独占していました。同社の公式な歴史は地域社会への貢献を強調していますが、当時の報告書はより暗い実態を描いています。ACCは競争相手をすべて排除し、負債と略奪的な価格設定によって先住民を「無力な依存、あるいは絶対的かつ卑劣な奴隷状態」に陥れたと非難されています。先住民への酒類販売を禁じる法律が存在したにもかかわらず、ACCの政治的影響力の下でそれらの法律はほとんど執行されず、アルコールは依然として重要な交易品であり続けたのです。
第3部:崩壊の解剖(1878年~1880年)
セントローレンス島の大飢饉は、単一の原因によるものではなく、環境、生態系、生物学、そして社会的な危機が同時に発生した「パーフェクト・ストーム」でした。
敵対的な気候:「奇妙な天候」
コーウィン号の乗組員に対して、生存者たちは繰り返し「奇妙な天候」と、狩猟を妨げた寒く嵐の多い冬について語りました。この現地の証言は、地球規模の気候データと一致します。1876年から1878年にかけての時期は、記録史上最強クラスのエルニーニョ現象が発生し、中国、インド、ブラジルで壊滅的な干ばつと飢饉を引き起こし、数千万人の命を奪ったのです。 この時期のベーリング海に関する直接的な古気候学的データは限られていますが、地球規模の文脈を考慮すると、ユピクの人々が異常気象を経験したという証言は極めて信憑性が高いです。セントローレンス島の大飢饉は、この地球規模の気候変動が北極圏で局地的に顕在化したものであった可能性が高いでしょう。大規模な大気循環の変動によって引き起こされた異常な風のパターンや海氷の形成が、すでに枯渇しつつあった海洋哺乳類へのアクセスをほぼ不可能にしたと考えられます。
空の海:人為的な生態系の砂漠
この要因の重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはありません。数十年にわたる産業的な捕鯨は、ユピクの食生活の中核をなし、食料安全保障の基盤であったホッキョククジラとセイウチの個体数を激減させていました。厳しい天候が襲ったとき、ユピクの人々は、すでにその豊かさを奪われた生態系の中で狩りをせざるを得なかったのです。かつて彼らを過去の困難な時期から救ってきた「誤差の範囲」は、もはや存在しなかったのです。
見えざる災厄:伝染病の流行
外部との接触は、孤立していた島の住民が免疫を持たない伝染病をもたらしました。記録には、赤痢、麻疹、猩紅熱などが村々を席巻したと記されています。そのタイミングは最悪でした。伝染病は1878年から79年にかけて流行し、飢餓が本格化する前に多くの人々の命を奪い、住民を衰弱させたのです。病に苦しむ共同体は、たとえ天候が許したとしても、生存に不可欠な過酷な狩猟を行う体力を失っていました。飢饉と伝染病は、互いの影響を増幅させ合う、相乗的な災害だったのです。
運命的な怠慢:アルコールの役割
フーパー船長が下した主要な結論、すなわち、交易商人が持ち込んだ酒による宴に気を取られた島民が「通常の食料備蓄を怠った」という点について、ここで批判的に検証します。 これが悲劇の一因であったことはほぼ間違いないですが、それは唯一の原因ではなく、すでに極度のストレス下にあったシステムにおける、最後の社会的な破綻であったと位置づけるべきでしょう。アルコール取引は、冬の食料を準備するという大規模な共同作業に不可欠な、共同体の規律と先見性を破壊しました。それは、危機に対する彼らの最良の防御であった社会構造そのものを蝕んだのです。
表1:セントローレンス島大飢饉の複合的原因 | 要因分類 | 具体的原因 | ユピク社会への影響 | | :————— | :——————————————- | :—————————————– | | 生態学的要因 | 商業捕鯨による海洋哺乳類の乱獲 | 食料安全保障の緩衝材の枯渇 | | 環境的要因 | 異常な海氷・気象パターン(エルニーニョ現象との関連) | 狩猟機会の喪失 | | 生物学的要因 | 外部から持ち込まれた伝染病の流行 | 人口の衰弱、労働力の喪失 | | 社会・技術的要因 | 連発ライフルの導入とアルコールの蔓延 | 持続可能な狩猟慣行の崩壊、社会的結束と季節的準備の破綻 |
この悲劇は、直線的な出来事ではなく、連鎖的なシステム障害でした。個々のストレス要因は、単に問題を追加しただけでなく、他の要因の影響を増幅させ、破滅的なフィードバックループを生み出したのです。伝統的なユピクの社会生態系は、生態系の豊かさ、社会的な結束、そして伝統的知識の効果的な伝達という3つの柱に支えられていました。まず、商業捕鯨が第一の柱である生態系の豊かさを破壊し、システムを脆弱にしました。次に、商品経済、アルコール、そして個人化されたライフル猟が、第二の柱である社会的な結束を蝕み、共同体の対応能力を損ないました。そして、新しい経済と技術は、持続可能な狩猟に関する第三の柱である伝統的知識の価値を低下させたのです。この最大限に脆弱な状態にあったシステムを、伝染病という生物学的な衝撃と、異常気象という環境的な衝撃が同時に襲いました。すべての柱が弱体化、あるいは破壊されていたシステムには、もはや回復力が残されていなかったのです。衝撃を吸収できずに完全に崩壊し、大量死という結果に至ったのです。このモデルは、なぜ1878年の飢饉が、考古学的記録に見られる過去のどの困難な時期よりも、はるかに壊滅的であったかを説明するものです。
第4部:惨劇の目撃 – トーマス・コーウィン号の証言
このセクションでは、コーウィン号の1880年の訪問を詳細に再現し、乗組員自身の言葉と観察を通して、悲劇の規模を物語ります。
死者の島を巡る
コーウィン号が島を調査する様子を、村から村へと時系列で追います。上陸隊が発見したのは、静寂と荒廃だけであったのです。 特に悲劇的だったのは、かつて活気があったククリク村の発見です。この村は完全に無人化していました。上陸隊は、何世紀にもわたる成功した居住の証である巨大な貝塚が、死の光景を見下ろしているのを目撃したでしょう。繁栄した過去の証拠と、目の前の恐ろしい現実とのコントラストは、彼らに深い衝撃を与えたに違いありません。 フーパー船長の記録には、特に痛ましい発見が記されています。それは、軽量な夏のテントの中で死亡している家族の遺体です。この事実は、彼らが厳しい冬を生き延び、春の最初の仕事を行うだけの体力を振り絞った後、力尽きたことを示唆しています。それは、資源と体力の完全な枯渇、そしておそらくは、海が依然として空であり、狩りが不可能であることに気づいたときの心理的な絶望を物語っています。 船医であったロス博士は、遺体を調査し、飢餓と病気の影響に関する冷徹な科学的見解を、乗組員の収集した人類学的データに加えるという、陰鬱な任務を負っていました。
生存者たちの声
数少ない生存者たちが語った断片的な証言が、物語に織り込まれています。彼らが語った「寒く嵐の多い冬」、そして悲劇の原因を「ウイスキーが先住民を狩りに出るには怠惰にしすぎた」ことに帰した言葉は、トラウマを抱えた当事者の視点を垣間見せます。 人口の推定値には食い違いがあります。飢饉以前の人口は約4,000人と推定されています。フーパー船長の乗組員は、残っていた1,500人の住民のうち1,000人が死亡しているのを発見したと推定しましたが、他の報告では総人口の3分の2、つまり2,500人以上が死亡したとされています。数字は様々ですが、人口が壊滅的な打撃を受けたことは疑いようがありません。
第5部:魂の清算 – ユピクの物語
このセクションでは、この災害に対する先住民自身の解釈を提示します。それは単なる民間伝承ではなく、この出来事の究極的な原因を理解するための、首尾一貫した認識論的枠組みです。
虐げられたセイウチ
人類学者によって記録され、エステル・オーゼヴァスクのような長老によって語り継がれてきたユピクの口承伝承は、この悲劇の核心に迫ります。物語の中心は、ククリク村の狩人たちです。彼らはその傲慢さから、若いセイウチを捕らえて拷問し、動物世界との最も神聖な関係の掟を破りました。 この伝承において、飢饉は天候の偶然や経済の結果ではありません。それは、この深刻な侮辱行為に対する、霊的世界からの直接的かつ懲罰的な反応なのです。動物たちは自らの姿を隠し、天候は人々に牙をむき、彼らの生存を保証していた契約は破られました。 西洋的な説明とユピクの説明は、単に解釈が異なるだけではありません。それらは、因果関係と世界のあり方を理解する、根本的に異なる方法(存在論)を代表しています。西洋の物語は唯物論的かつ直線的であり、物理的な原因の連鎖を求めます。一方、ユピクの物語は関係論的かつ道徳的であり、この出来事を人間と非人間との間の壊れた関係の結果と見なすのです。 民族史学的なアプローチは、ユピクの物語を科学的データで「反証」しようとするものではありません。むしろ、ユピクの説明が、この危機に対する強力かつ内的に一貫した診断であることを認識するものです。彼らの視点では、交易商人の不敬で商品主導の考え方を受け入れたことこそが究極の原因であり、空の海や悪天候はその症状に過ぎなかったのです。拷問されたセイウチの物語は、「敬意の経済」からの完全な逸脱を象徴する、力強いメタファーなのです。
第6部:長い影 – 1880年の永続的な遺産
この最終セクションでは、飢饉という歴史的なトラウマを、島の現代的な現実に結びつけ、文化、社会、そして健康に与えた永続的な影響を示します。
灰からの再生:再定住と再創造
飢饉の直後、島の人口は壊滅し、主にシベリア・ユピクの人々が住むいくつかの村だけが残りました。島の東部は完全に無人となりました。その後、近隣のシベリア沿岸からユピクの家族が移住してきたことで、島は徐々に再人口化されました。この過程で、住居の設計の変化など、新たな文化的影響がもたらされました。 その後、外部からの試みとして、1894年の長老派教会の伝道所の設立や、1900年の新たな生活基盤としてのトナカイの導入など、島の経済を再構築する動きがありました。
1世紀にわたるトラウマと回復力
飢饉は、共同体をその後の植民地化の圧力に対して脆弱にする、根源的なトラウマとして機能しました。この出来事は社会構造を粉砕し、知識伝達の系譜を断ち切り、信仰の危機を生み出したのです。この歴史的な脆弱性は、ガンベル村とサヴンガ村が今日直面している、文書化された多くの課題と直接結びついています。
- 文化の喪失: 飢饉による文化的な断絶に加え、寄宿学校での強制的な同化政策が、先住民の言語や慣習の使用を罰することで、さらなる打撃を与えました。
- 経済的依存: 自給自足の経済から、現金と生存活動を組み合わせた混合経済へと移行し、外部システムへの依存が続いています。
- 社会・健康危機: アルコール依存症、家庭内暴力、そして世界で最も高い自殺率。これらは、本質的な欠陥としてではなく、歴史的かつ世代間のトラウマの直接的で長期的な結果として提示されます。
- 環境正義の問題: 冷戦時代の軍事施設から残された汚染が、伝統的な食料源を汚染し、高いがん発生率の一因となっています。
結論:沈黙の島の警告
しかし、1880年の想像を絶する大惨事と、その後の1世紀にわたる困難にもかかわらず、彼らの文化は存続しています。シベリア・ユピク語は今も話され、生存のための狩猟は彼らのアイデンティティの中核をなし、共同体は現代世界の複雑な課題を乗り越え続けています。これはこの物語の希望でもあります。
しかし、セントローレンス島の大飢饉の物語は、生態系の破壊と文化的な混乱がもたらす迅速かつ壊滅的な結果が他の場所でも起こるかもしれないということへの警告なのかもしれません。


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