アメリカに皇帝がいた?サンフランシスコに愛された「皇帝」ノートン1世の謎

人物の不思議

1880年1月8日、冷たい雨が降るサンフランシスコの夜。古びた軍服をまとい、威厳をたたえた一人の老人が倒れました。彼の名はジョシュア・エイブラハム・ノートン。しかし、人々は彼をこう呼んでいました――「合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者、ノートン1世陛下」。

無一文の浮浪者だった皇帝の死は、街全体を悲しみに包みました。資本家から貧民まで、1万人を超える人々が彼の葬儀に参列し、2マイルにも及ぶ弔列を作ったと言われています。

なぜ、一介の破産した実業家が、これほどまでに市民から敬愛され、「皇帝」として壮大な見送りを受けたのでしょうか?

本稿では、ジョシュア・ノートンがいかにしてサンフランシスコ市民の心に「皇帝」として君臨するに至ったのか、その奇跡の物語を深く掘り下げます。これは単なる奇人伝ではありません。アイデンティティ、コミュニティ、そして人々が生み出す「生きた神話」の本質を問う、類まれな歴史的ケーススタディです。


第一部:商人王の没落

「皇帝ノートン1世」を理解するためには、まず「ジョシュア・ノートン」という一人の男の人生を遡る必要があります。彼の栄光と挫折が、後の皇帝としてのペルソナを形成する上で決定的な役割を果たしました。

ロンドンから黄金の門へ

1818年、ロンドンで生まれたジョシュア・ノートンは、南アフリカを経て、ゴールドラッシュに沸く1849年のサンフランシスコに降り立ちました。父親の遺産を元手に、彼は手数料商人や不動産投機家として成功を収め、1852年までに純資産は現在の価値で数億円に達したと推定されています。友人たちは彼の商才を称え、すでに「皇帝(Emperor)」と呼んでいたと言われています。

米投機の大失敗

しかし、1852年、ノートンは市場を独占しようと大胆な米の投機に打って出ます。ところが、予期せぬ大量の米の arrival により価格は暴落。ノートンは破産し、数年にわたる法廷闘争の末、無一文となり、9ヶ月間サンフランシスコの表舞台から姿を消します。

ゴールドラッシュが生んだ異端

ノートンの劇的な成功と破滅は、ゴールドラッシュ時代のサンフランシスコが持つ、一攫千金と破滅が隣り合わせの混沌とした精神を象徴していました。この不安定な環境こそが、従来の社会規範に縛られない「皇帝ノートン1世」を受け入れる土壌となったのです。もしもっと安定した社会であれば、彼はおそらく精神病院に収容されていたでしょう。


第二部:アメリカ皇帝の誕生

1859年9月17日、約9ヶ月の沈黙を破り、ノートンはサンフランシスコ・デイリー・イブニング・ブレティン紙に手書きの布告を提出します。

皇帝即位宣言

その布告は高らかに宣言しました。「合衆国市民の大多数からの強い要請により、私、ジョシュア・ノートンは…合衆国皇帝たることを宣言し、布告する」。南北戦争前夜の国家分裂の危機を憂慮しての宣言でした。

新聞社がこのユーモラスな布告を掲載したことから、皇帝ノートン1世の「治世」が始まったのです。

皇帝のスタイル

金メッキの肩章がついた青い軍服、羽根飾りの帽子、ステッキ。これが皇帝ノートン1世の象徴的なスタイルでした。彼は毎日街を巡回し、「視察」を行い、市民と議論を交わし、図書館で読書にふけりました。住まいは安宿の一室でしたが、人々は彼を王族のように扱いました。

世論という帝国

ノートンが贔屓にするレストランは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」のプレートを掲げ、無料で食事を提供。劇場は特別席を用意し、交通機関も無料で利用できました。彼は「税金」と称して少額のお金を徴収し、独自の紙幣「皇帝債券(Imperial Scrip)」を発行。これは一部の店で受け入れられ、観光客にも人気を博しました。

「大逆罪」事件

1867年、新米警官がノートンを浮浪罪で逮捕しようとしましたが、市民の猛烈な抗議によりすぐに釈放されました。警察署長は公式に謝罪し、ノートンは警官に「皇帝特赦」を与えました。この事件以降、サンフランシスコの警官は皇帝に敬礼するようになり、彼の地位は不動のものとなりました。


第三部:君主の精神と勅令

ノートン1世の「治世」は、奇抜さの中に深い洞察と慈愛に満ちていました。

先見の明

彼は腐敗した議会を「解散」させ、党派対立を招くとして二大政党を「廃止」するなど、大胆な勅令を発しました。驚くべきことに、彼の布告には未来を見据えたものが多く含まれています。

  • ベイブリッジ建設の提唱: 1872年、彼はサンフランシスコとオークランドを結ぶ吊り橋の建設を命じました。彼の死後60年以上経って、彼の示したルートとほぼ同じ場所にベイブリッジが建設されました。
  • 人権擁護: アフリカ系アメリカ人の公共交通機関利用や教育を受ける権利、中国人の法廷での証言を認めるべきだと主張。女性参政権や信教の自由も支持しました。
  • 先進的なアイデア: 国際連盟の設立、飛行船の開発、ケーブルカーの安全装置改善などを提唱しました。

慈悲深き行い

反中国暴動の現場に居合わせたノートンは、暴徒と中国人の間に割って入り、主の祈りを唱え群衆を解散させたと伝えられています(後世の脚色という説もあります)。また、反中国人を扇動していたデニス・カーニーの集会に乗り込み、直接対決した記録も残っています。

陛下の精神病?

ノートンの精神状態については様々な議論があります。「高機能の統合失調症」や、破産後の「うつ病による演技性パーソナリティ」といった診断も試みられています。しかし、最も重要なのは、彼の妄想が、破滅的な失敗を乗り越え、意味のある公的な役割を創造することを可能にした、創造的な自己保存行為であったということです。

神話と現実

「『フリスコ』という言葉を使った者に罰金を科す」という有名な勅令は、後世の創作である可能性が高いとされています。また、風刺画家がノートンと一緒に描いたことから、野良犬のバマーとラザラスが彼のペットだったという神話も否定されています。

ノートンの勅令を分析すると、彼は絶対的な権威を装いながらも、その目的は政治腐敗や社会的不公正の解決、公共の福祉の実現にあったことがわかります。彼は「私心なき皇帝」として、社会の欠点を奇妙な権威をもって指摘し、人々に安らぎを与える代替案を示したのです。


結論:皇帝ノートンの永続する帝国

ノートン1世の「奇跡」は、彼が皇帝を自称したことではありません。それは、大混乱の時代にあったサンフランシスコという街が、彼を受け入れ、彼の空想に「付き合った」ことです。市民は彼の穏やかで慈愛に満ちた「治世」の中に、現実の厳しさに対する希望を見出しました。

彼の物語は、マーク・トウェインの作品に影響を与え、現代の文化にもその名を残しています。サンフランシスコにとって、ノートンは寛容、個人主義、慈愛の象徴であり、「変わり者たちの守護聖人」なのです。

狂気と慈愛が交差する点で、ジョシュア・ノートンは皇帝ノートン1世となり、その物語はこれからも語り継がれていくでしょう。

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