慶応三年(1867年)、日本の歴史が大きく動こうとしていたその年。 東海道沿いの村の空から、突如として、伊勢神宮の御札が、ひらひらと舞い降りてきました。
この、神聖なる奇跡を目撃した人々はただ静かに手を合わせることはありませんでした。 代わりに、彼らは家を、仕事を、家族さえも放り出し路上へと飛び出していったのです。 男性は女装し、女性は男装し、酒を酌み交わし、見知らぬ人々と肩を組み、ただひたすらに歌い踊り狂う。その口から発せられるのは意味不明の熱狂的な叫びでした。
「ええじゃないか、ええじゃないか!」
この謎の集団乱舞はまるで伝染病のように、瞬く間に日本中を飲み込んでいきました。 一体、何が人々とそして日本をこれほどまでに狂わせたのでしょうか?
これは、徳川幕府という一つの時代の終焉に際して、民衆が見せた最後のそして最も奇妙で混沌とした集団ヒステリーの物語です。この熱狂は自然発生だったのか?それとも裏には民衆を操る陰謀が隠されていたのか?「ええじゃないか」の謎に迫っていきましょう。
第1章:崩壊する世界 – なぜ「奇跡」が必要だったのか?
「ええじゃないか」が勃発した1867年の日本は、まさに絶望のどん底にありました。 260年以上も続いた徳川幕府の権威は黒船来航以来、地に落ちていました。
- 政治の崩壊: 幕府は近代化された長州藩との戦争に敗北し、その軍事的な無力さを天下に晒してしまいます。「もはや幕府は頼りにならない」という空気が国中に蔓延していました。
- 経済の破綻: 開港による物価の高騰は庶民の暮らしを直撃し、長年の不作も重なり、人々は日々の食うものにも困る極貧の状態にありました。
- 疫病と災害: 洪水や地震といった自然災害が頻発し、コレラのような疫病が繰り返し流行し、多くの人々の命を奪っていました。
政治、経済、そして天災。あらゆる面で行き詰まり疲弊しきっていた民衆は、もはやこの世の権力者である為政者や幕府による救済を信じていませんでした。 彼らが最後にすがったのは、人知を超えた神仏による奇跡的な「世直し」への切実な祈りしかなかったのです。
そんな、まさに爆発寸前の社会の火薬庫に、天から舞い降りた一枚の御札が、火をつけたのでした。
第22章:最初の御札 – 祝福か、祟りか?発祥地を巡る謎
では、この壮大な熱狂は一体どこから始まったのでしょうか? その正確な発祥地については、今もなお研究者の間で見解が分かれており歴史のミステリーとなっています。
京や大坂で始まったとする「京阪発祥説」に対し、近年の研究で有力視されているのが「東海発祥説」です。 そして、その説が指し示す始まりの物語は決して奇跡の喜びに満ちたものではありませんでした。
慶応三年七月、三河国牟呂村(現在の愛知県豊橋市)。 ある家の裏の竹垣に伊勢神宮の御札が落ちているのが見つかります。 しかし、この神聖な発見の直後、御札を拾った家の息子が突然死んでしまうという不幸が起こります。 翌日には別の御札が見つかり、今度は村の女性が急死しました。
神の奇跡の御札は、祝福ではなく祟りをもたらしたのです。 この不可解で恐ろしい出来事に村人たちはパニックに陥りました。 彼らはこの災厄を祓うため、三日三晩にわたる狂乱的な祝宴を始めます。歌い、踊り、騒ぐことで制御不能な神の力を鎮めようとしたのです。
このエピソードは「ええじゃないか」の根底にある深い両義性を明らかにしています。 天から降る御札は単純な吉兆ではありませんでした。それは、日常の世界に突如として介入してきた恐ろしくも強力な人智を超えた聖なる力。 その後の「祝祭」は純粋な喜びの発露ではなく、その力を鎮め厄災を遠ざけるための恐怖をから来る必死の呪術的儀式だったのです。
第3章:熱狂の解剖学 – 秩序が転倒した世界
この熱狂は、日本各地でその土地の文化や人々の願いを映し出しながら様々な様相を呈しました。
異性装と仮装
「ええじゃないか」の熱狂を最も視覚的に特徴づけていたのが、日常の社会秩序を根底から覆す「異性装」でした。 男性は女性の着物をまとい、女性は男装して、徳川時代の厳格な身分制度や男女の区別を嘲笑うかのように町を練り歩きました。 一部の地域では、徳川家康を祀る日光東照宮の葬儀を模した仮装行列まで行われました。これは徳川幕府の死を公然と予告する極めて挑発的な反逆行為でした。
叫ばれる「世直し」
「ええじゃないか」という掛け声も、全国共通ではありませんでした。その歌詞は、各地の民衆が抱く、具体的な願いを映し出す鏡となっていたのです。
- 阿波(徳島): 「日本の世直りはええじゃないか、豊年踊りはおめでたい」
- 西宮(兵庫): 「長州がのぼった(京都に来た)、物が安くなる、えじゃないか」
「世直し」への漠然とした期待から、反幕府勢力である長州藩へのより直接的な政治的支持まで。歌や掛け声は民衆の生々しい声を代弁したものだったのです。
神の名の下の「富の再分配」
そして、この祝祭には常に強圧的な側面が潜んでいました。 踊り狂う群衆は、地域の富裕層(富商・豪農)の家に押しかけ、酒や食事、金銭を要求します。この要求の背後にある大量の民衆の熱狂を恐れ、富裕層は実質的に拒否することができませんでした。そして、興味深いことに、天から降ってくる御札は『なぜか裕福な家の屋根にばかり落ちる』と噂されました。
天から降ってくる御札という奇跡が、この行為を単なる強奪ではなく富の再分配を求める民衆の行動として、神聖な正当性を与えるものになったのでした。神の御名において、ほんの束の間、富は上から下へと流れ経済秩序は逆転させられたのです。
第4章:革命の煙幕か? – 坂本龍馬暗殺との奇妙な関係
では、この国中を巻き込んだ大混乱は本当に自然発生的なものだったのでしょうか? 当時から、一つの「陰謀説」が根強く囁かれていました。 それは、「ええじゃないか」が薩摩藩や長州藩といった倒幕派が、幕府転覆のために社会を混乱させる目的で裏で糸を引いていたのではないか、という説です。
騒動のタイミングは倒幕の動きと完全に一致しており、西宮で歌われたような親長州的な掛け声もその証拠とされました。 しかし、この陰謀説を裏付ける決定的な証拠は、今日に至るまで発見されていません。 現代の歴史学では、「ええじゃないか」は倒幕派によって「創られた」のではなく、自然発生した民衆のエネルギーを彼らが巧みに「利用した」というのが一般的な見解です。
坂本龍馬暗殺の夜
そして、この混沌が歴史上の最も有名な悲劇の一つの恐るべき「舞台装置」となってしまったことを、私たちは忘れてはなりません。 慶応三年十一月十五日、京都。 坂本龍馬が河原町の近江屋に潜んでいたその夜、外の通りは「ええじゃないか」の喧騒に包まれていました。
この街全体を覆う狂乱は、龍馬を狙う暗殺者たちにとって完璧な隠れ蓑となりました。 彼らは人々の熱狂に紛れて近江屋に接近し、龍馬を暗殺した後、再び混沌とした群衆の中へと姿を消したのです。
大政奉還を画策し、無血での政権移譲を目指していた龍馬。 その彼が理性を失った民衆の熱狂のただ中で暗殺されたという事実は極めて象徴的です。 「ええじゃないか」の熱狂は、より良い世界を夢見て歌い踊るものでありながら、意図せずしてその世界を平和裏に実現し得たかもしれない人物の死を手助けしてしまったかもしれない。 これは、政治的戦略を持たない民衆のエネルギーがいかにその本来の意図とは正反対の目的に利用されうるかを示す痛烈な歴史の皮肉と教訓です。
結論:江戸時代の最後の舞踏…そして明治の時代へ
「ええじゃないか」の熱狂は、明治新政府がその権力を確立し始めると急速に沈静化していきました。 新しい政治秩序という具体的な現実を前にして、民衆はもはや、超自然的な救済を求める必要がなくなったのです。
この現象は単なる集団ヒステリーではありませんでした。 それは、死にゆく世界と、まだ生まれぬ世界の狭間で立ち尽くした人々による複雑で、自発的で、そして強力な自己表現でした。 それは祈りであり、祝祭であり、そして革命の煙幕にも利用される圧倒的な民衆の感情の爆発でもありました。
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