1817年4月、イギリスの静かな村アーモンズベリー。 その夕暮れ時、一人の謎めいた女性が、ふらりと姿を現しました。黒いターバンを巻き、異国の言葉を話し、誰にも身元を明かさない彼女。 しかし、その手は驚くほど柔らかく、立ち居振る舞いは気品に満ちていました。彼女は一体、何者なのか?
やがて、一人の船乗りの「通訳」によって、彼女の驚くべき正体が明かされます。 彼女は、インド洋に浮かぶジャバス島から来た、カラカブー姫。海賊に誘拐され、船から飛び降りて、この地に泳ぎ着いたのだ、と。
この物語に、当時のイギリス上流社会は熱狂しました。 しかし、もしこの悲劇の王女の物語が、すべて真っ赤な嘘だったとしたら…?
これは、一人の貧しい靴職人の娘が、その類稀なる想像力と演技力で、国中を巻き込んだ壮大な詐欺事件の物語。そして、なぜ人々が、そのあまりにも出来すぎた物語をこれほどまでに信じたがったのかという、人間の心理の深淵に迫る歴史のミステリーです。
第1章:謎の形成 – 異邦人が演じた「不思議」
この物語の主人公は、当初名前さえ持たない「謎の女性」でした。 最初に彼女を発見した村人たちは、ただの物乞いだと思い、貧民監督官のもとへ連れて行きます。しかし、やがて彼女の身柄は地元の裕福な治安判事、サミュエル・ウォラル氏の邸宅へと引き渡されました。
このウォラル夫妻の邸宅こそが、壮大な虚構が育まれる完璧な舞台装置となってしまいます。 法律家であるウォラル氏は、彼女をただの放浪者として懐疑の目を向けます。しかし、その妻エリザベスは、彼女のエキゾチックな魅力にロマンチックな好奇心を掻き立てられました。
謎の女性は、このエリザベスという観客の期待に応えるかのように、巧みなパフォーマンスで自らの「異質性」を演じ続けます。
- 奇妙な儀式: お茶を飲む前には必ず自分でカップを洗い、片目を手で覆って祈りの言葉を呟く。
- 西洋文化の拒絶: ふかふかのベッドで寝ることを拒み床で眠ろうとする。
- 異国を匂わすヒント: 壁に飾られたパイナップルの絵を指さし、「アナナ!」と叫ぶ。(アナナは、多くの言語でパイナップルを意味する言葉)
そして、彼女が単なる労働者階級の女性ではないことを示す決定的な「証拠」が見つかります。 彼女の手は、驚くほど柔らかく手入れが行き届いており、重労働に従事した痕跡が全くなかったのです。
謎の女性は異質で不思議なふるまいを演じ、見るものはその行動や言葉に神秘性を見出すという共同作業でした。 ある意味、彼女は曖昧なヒントを提示したに過ぎません。彼女の観客、特にウォラル夫人は、自らの願望や「東洋」に対するロマンチックな幻想というレンズを通してそのヒントを熱心に解釈し、勝手に物語を膨らませていったのです。
第2章:船乗りの通訳と、完璧な物語の誕生
地元の好奇の的となった「カラカブー」の謎を解く鍵は、意外な人物によってもたらされました。 マヌエル・エイネッソと名乗るポルトガル人の船乗りです。彼は、彼女の奇妙な言葉を「理解できる」と主張し、それまで断片的だった彼女のパフォーマンスに首尾一貫した「物語」を与えました。
エイネッソが「翻訳」した物語は、劇的でロマンに満ちていました。
彼女の正体は、インド洋に浮かぶジャバス島から来た、カラカブー姫。 ある日、海賊に誘拐され、長い船旅の末、イギリス沖で船から海に飛び込み、岸まで泳ぎ着いたのだ。
海賊、異国の王女、そして九死に一生を得る大胆な脱出劇。 この物語はナポレオン戦争が終わり、遠い異国への冒険譚に飢えていた、当時のイギリス人の心を完璧に鷲掴みにしました。
メアリーが儀式や奇妙な言葉といった「行動によるパフォーマンス」を提供し、エイネッソがそれらを意味づける「物語の構造」を提供する。この二人の連携によって、壮大な詐欺はついに完成したのです。
第3章:上流社会の寵児 – 10週間の栄光
カラカブー姫の物語が確立されると、彼女は10週間にわたり、ブリストルとバースの上流社会で、時の人となります。 ウォラル夫妻の邸宅には、異国の王女を一目見ようと、名士や紳士淑女たちが、絶え間なく訪れました。
カラカブーはその期待に応えるかのように魅力的で、時にスキャンダラスな振る舞いで、聴衆を虜にしていきます。
- 手製の弓矢や、フェンシングで見事な腕前を披露する。
- 「アッラー・タッラー」と呼ぶ神に木のてっぺんから祈りを捧げる。
- そして、誰も見ていないと思い、屋敷の湖で裸で泳ぐという当時の社会の度肝を抜く行動に出る。
彼女の名声は、新聞に掲載された肖像画によって不動のものとなりました。 当時のイギリス社会は、「オリエンタリズム」―東洋に対するロマンチックで、しばしば見下した、そして大部分が架空のイメージ―に深く染まっていました。 カラカブーが見せたイスラム教を思わせる神、インドネシア語のパイナップル、中国風の図像、そして国籍不明の「エキゾチック」な踊り。この文化のごちゃ混ぜは、彼らが抱く、支離滅裂だが強烈な「東洋」のイメージと完璧に一致したのです。 彼らは、完璧なインドネシアの王女に騙されたのではありません。彼ら自身の幻想が生み出した、インドネシアの王女の完璧な模倣に騙されたのです。彼女は、彼らのロマンチックな偏見を映し出す完璧な鏡でした。
第4章:王冠のひび割れ – 新聞が暴いた真実
しかし、彼女の運命を決定づけたのは、学者の冷ややかな評価ではなく、彼女を有名にしたのと同じ「メディア」でした。 彼女の肖像画が地元の新聞『ブリストル・ジャーナル』に掲載されたことが、壮大な虚構の幕引きのきっかけとなったのです。
ブリストルで下宿屋を営むニール夫人がその新聞記事を目にしました。 彼女は紙面を飾る「王女」が、かつて自分の家に滞在し、娘たちを相手に自作の奇妙な言語で楽しませていた、元使用人のメアリー・ウィルコックスであることにすぐに気づきました。
ニール夫人はすぐにウォラル夫妻の邸宅へ赴き、すべてを暴露します。 かつての雇い主と対面したメアリーの平静は、いに崩れ去りました。ジャバス島の王女の壮大な物語は終焉を迎え、その正体がデヴォン出身の貧しい靴職人の娘であることが白日の下に晒されたのです。
結論:オリエンテーリングに翻弄された、偽りの王女の悲しい真実
カラカブー姫という華やかな仮面の下には、メアリー・ウィルコックスという一人の女性の悲劇的な実人生が隠されていました。 貧しい家に生まれ、幼くして兄弟を亡くし、16歳で家を出て、メイドとして各地を転々とする。愛した男には見捨てられ、生まれたばかりの我が子もすぐに亡くしてしまう。 彼女の人生は苦難の連続でした。
カラカブー姫という彼女が作り出した偽りの王女は、単なる金銭目当ての詐欺ではなかったのかもしれません。 それは、深刻なトラウマと社会的無力感から生まれた、現実からの逃避と憧れが投影された別人格だったのかもしれません。 労働者階級の女性として、何の権利も持たなかったメアリー・ウィルコックス。しかし、「カラカブー姫」になることで彼女は自らの物語の主導権を握り、同情の対象から、魅力と賞賛の対象へと自らを変貌させたのです。 それは、彼女が過酷な現実から逃れ、本来ならば決して手にすることのできない力と主体性を手に入れるための絶望的で、創造的で、そして究極的には成功した試みだったのです。
詐欺が発覚した後、世間の反応は驚くほど寛大でした。新聞は上流社会を出し抜いた賢い労働者階級のヒロインとして彼女をもてはやし、騙された紳士淑女たちを嘲笑しました。
彼女は訴追されることなくアメリカへと渡り、しばらくは「カラカブー姫」として舞台に立ちましたが、やがてイギリスに帰国。人生の最後の30年間は、ブリストルで診療所にヒルを売ることで、静かに堅実な生計を立てていたといいます。
メアリー・ウィルコックスという人物は、歴史の闇に消えていきました。 しかし、カラカブー姫という伝説は、ブリストルの民話として永遠に残り、巧みに語られた「嘘」が持つ不朽の力を証明しています。
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