ペンシルベニア州セントラリア。かつて数千の住民が生活を送っていたこの場所は、今や碁盤の目状に残る道路と、自然に還りつつある空き地が広がる、静寂に包まれたゴーストタウンです。しかし、その静けさとは裏腹に、地面の至る所から絶えず白い蒸気が立ち上り、微かに硫黄の匂いが漂っています。丘の上にポツンと佇むウクライナ・カトリック教会だけが、この忘れ去られた町の最後の記憶を留めているかのようです。
この異様な光景は、1962年から60年以上もの間、地下で燃え続ける炭鉱火災の、生々しい傷跡です。一見些細な出来事が引き金となり、瞬く間に制御不能となったこの火災は、活気に満ちたコミュニティを徐々に蝕み、「有毒なゴーストタウン」へと変貌させました。
本稿では、セントラリアを襲った悲劇の深層に迫ります。なぜ、ただのごみ処理の火が、半世紀以上にわたり燃え続ける地獄の業火へと拡大したのか?鎮火を試みた数々の努力は、なぜ全て失敗に終わったのか?そして、この燃える大地を故郷と呼び、逃げ去った人々、留まることを選んだ人々の物語は、私たちに何を教えてくれるのでしょうか?炭鉱ラッシュが生んだ町の興隆から、現在まで続く静かなる終焉、そして大衆文化の中での意外な再生まで、セントラリアの運命を辿ります。
第一章:黒いダイヤモンドの上に築かれた街
セントラリアの歴史は、19世紀に発見された豊富な無煙炭、まさに「黒いダイヤモンド」の存在から始まります。産業革命の燃料として需要が高まる中、この炭鉱の町は急速に発展し、1866年には正式に法人化されました。1890年には人口は2,761人に達し、7つの教会、5つのホテル、27もの酒場が軒を連ねる繁栄を見せました。
しかし、その繁栄の裏側には、常に暴力の影が潜んでいました。過酷な労働条件と民族間の対立は、アイルランド系炭鉱労働者の秘密結社「モリー・マグワイアズ」による破壊活動を招き、町の創設者アレクサンダー・レイが1868年に殺害されるという悲劇も起こりました。さらに、地元の伝説では、1869年にモリー・マグワイアズのメンバーに暴行されたマクダーモット神父が、「いつかこの聖イグナチオ教会だけが残り、他は全て滅びるだろう」と予言したとされています。
20世紀に入ると、石炭産業は徐々に衰退。多くの鉱山が閉鎖され、失業した炭鉱夫たちは閉鎖された鉱山に忍び込み、危険な「ブートレッグ・マイニング」と呼ばれる違法採掘を行うようになりました。特に、石炭層を支える柱を削り取る「ピラー・ロビング」は、地下坑道を不安定にし、後の大火災の伏線となりました。セントラリアの悲劇は、単なる事故ではなく、経済的衰退と危険な産業遺産が複合的に引き起こした、必然的な結末だったと言えるでしょう。
第二章:穴の中の火花
1962年5月、セントラリアの町議会は、戦没者追悼記念日を前に、町の埋立地の清掃を決定します。オッド・フェローズ墓地に隣接するこの場所は、悪臭と害虫の発生源となっていました。そこで採用されたのが、ごみを燃やすという、当時としては一般的でありながらも、実は州法で禁止されていた処理方法でした。
5月27日、消防団がごみに火をつけ、表面の火は消し止めましたが、地下では火がくすぶり続けていました。数日後、再び炎が確認されますが、完全に鎮火することはできませんでした。
この時、誰も気づいていなかった致命的な事実。埋立地の壁の底には、幅4.6メートルもの未封鎖の穴が存在し、それが地下の広大な無煙炭層へと繋がっていたのです。くすぶり続けた火は、この穴を通って地下深くまで燃え広がり、セントラリアの地下で、消えることのない地獄の火が点火してしまったのです。
火災発生後、住民からは異臭の苦情が相次ぎました。鉱山監督官による調査で、地面の裂け目から一酸化炭素が検出された時、事態は深刻な地下災害へと変わりました。埋立地の不適切な管理、違法な焼却、そして何よりも、地下坑道へのアクセスを塞がなかった怠慢。小さな油断と手抜きが積み重なり、取り返しのつかない大惨事を招いたのです。
第三章:数十年にわたる否定と敗北
火災発生当初、鎮火活動は楽観視され、予算も十分ではありませんでした。最初の掘削計画はすぐに頓挫し、次に試みられた「フラッシング」と呼ばれる工法も、冬の寒さによって失敗に終わります。
州政府と連邦政府は、責任を押し付け合い、十分な資金援助やリーダーシップを発揮することはありませんでした。初期の消火活動は、時間や人員も限られ、火災の拡大を防ぐことはできませんでした。
さらに、地下火災は複雑な坑道網を伝って広がり、ほぼ無限の燃料と酸素が供給され続けるという、科学的な困難さも鎮火を不可能にしていました。ゆっくりと進行し、目に見えない場所で燃え続ける火災は、人々の危機感を麻痺させ、政治的な関心を引くこともできませんでした。ハリケーンのような劇的な災害とは異なり、セントラリアの火災は静かに進行し、その脅威が表面化するまで、十分な対策が取られることはなかったのです。
第四章:崩壊
1970年代後半から1980年代初頭にかけて、地下の火災は地表にも影響を及ぼし始めます。地面の温度は摂氏482度を超える場所もあり、道路は歪み、有毒ガスが家の中に漏れ出す事件も発生しました。
そして1981年、12歳の少年トッド・ドンボスキーが、裏庭で突然陥没した深さ45メートルの穴に転落しかけるという衝撃的な事故が起こります。この事件は全国的なニュースとなり、セントラリアの悲劇は一気に注目を集めることになりました。
メディアの報道は、政府に重い腰を上げさせましたが、同時に町を二分する亀裂を生みました。危険を感じて移住を求める「離脱派」と、故郷に残ることを主張する「残留派」との間で、激しい対立が起こったのです。この町の運命を決定づけたのは、科学的な報告書ではなく、一人の少年の身に起こった危機的な出来事でした。
第五章:ゆっくりとした絶滅
1983年、政府は火災の鎮火は不可能であると結論付け、町の放棄へと方針を転換します。1984年には、住民の移転のために4200万ドルの予算が承認され、多くの住民が故郷を去り、建物は解体されました。
しかし、「ホールドアウト」と呼ばれる数十人の住民は、移住を拒否し、故郷に留まり続けました。彼らは、何世代にもわたる家族の歴史や、故郷への深い愛着から、燃える大地での生活を選んだのです。
残留者の一人、ジョン・ロキティス・ジュニアは、町の記憶を守るために尽力しましたが、2009年に立ち退きを命じられ、家も解体されました。2013年には、残りの住民と政府との間で和解が成立し、彼らは生涯自宅に住む権利を得ましたが、その死後、土地は州に没収されることになりました。この対立は、「家」を単なる資産と見なす政府と、「故郷」をかけがえのない精神的な拠り所と考える住民との、根深い認識のずれを浮き彫りにしました。
第六章:ゴーストタウンの再生
物理的に消滅した後も、セントラリアの物語は意外な形で生き続けます。閉鎖された州道61号線の旧道は「グラフィティ・ハイウェイ」として知られるようになり、多くの人が訪れる名所となりましたが、2020年に地権者によって埋め立てられました。
また、セントラリアは人気ホラーゲーム『サイレントヒル』のモデルになったという説も広く知られています。映画版の脚本家は影響を受けたと認めていますが、ゲームの制作者はこれを否定しています。
驚くべきことに、町のほとんどが廃墟と化す中で、聖母被昇天ウクライナ・カトリック教会だけが奇跡的に残りました。固い岩盤の上に建てられていたため、地下火災の被害を免れたのです。現在も礼拝が行われ、巡礼地としても認定されており、荒廃の中の希望の光となっています。
2020年代の調査では、セントラリアにはわずか数人の住民が暮らしていることが確認されています。空っぽの道路、手入れの行き届いた墓地、そして今も続く地下火災。州政府が町の歴史に幕を下ろそうとした試みとは裏腹に、セントラリアは「グラフィティ・ハイウェイ」、『サイレントヒル』、そして教会という形で、人々の記憶の中で生き続けているのです。
結論:次の火災
科学者によれば、セントラリアの地下火災はあと100年から250年以上燃え続けると予測されています。これは単なる地方の悲劇ではなく、世界中で発生している数千もの坑内火災の一つであり、地球規模の環境問題の一部です。
セントラリアの物語は、地下火災による直接的な被害だけでなく、政府の無策と、それによって引き裂かれたコミュニティの崩壊という、人為的な悲劇を映し出しています。この炎に呑まれた町は、産業開発の長期的な環境への影響、自然の力の前に人間がいかに無力であるか、そして故郷への深く複雑な感情を、未来永劫に語り続けるでしょう。
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