歴史上、数多くの戦いが記録されていますが、これほど奇妙で、馬鹿げていて、そして不思議な「戦い」は他にないでしょう。 1788年、オーストリア帝国の大軍10万人が、たった一人の敵兵も見ることなく、自滅したとされる事件。それが「カランセベシュの戦い」です。
伝説によれば、この戦い(?)での死傷者は1万人。きっかけは、兵士たちのシュナップス(お酒)を巡る些細な口論だったと言われています。 一体、その夜、何が起こったのでしょうか?本当に、たった一夜で1万もの兵士が、味方同士で殺し合ったのでしょうか。今回は、戦争の愚かさを象-徴する、歴史上最もミステリアスな自滅事件の真相に迫ります。
火薬箱だった軍隊:悲劇が起きるべくして起きた背景
カランセベシュの悲劇は、単なる突発的な事故ではありませんでした。それは、いつ爆発してもおかしくない「火薬箱」のような状態にあった軍隊が、必然的にたどった結末だったのです。
1.病める皇帝と、不毛な戦争
この軍隊を率いていたのは、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世。彼は啓蒙君主として有名でしたが、軍事の才能には恵まれていませんでした。さらに悪いことに、彼は深刻な病に蝕まれ、食事もままならないほど衰弱していたにもかかわらず、「輝かしい勝利」への執念から、自ら前線での指揮に固執していました。
そもそも、このオーストリア・トルコ戦争自体が、オーストリアにとっては得るものの少ない不毛な戦いでした。準備不足とロシアとの連携の悪さ、そして国内経済の悪化。兵士たちの間には、開戦前から絶望的な雰囲気が漂っていました。
2.見えない敵に半壊させられていた軍隊
カランセベシュの悲劇が起こるずっと前から、オーストリア軍はすでに半壊状態でした。敵はオスマン帝国軍ではなく、マラリアや赤痢といった伝染病です。 ある記録によれば、軍は敵と一度も交戦することなく、わずか半年で3万3000人もの兵士が病死していたと言われています。
つまり、カランセベシュに集結した10万の軍隊とは名ばかりの、病で心身ともに疲れ果て、士気も規律も崩壊寸前の集団だったのです。彼らは、ほんの小さな火花で大爆発を起こす、危険な火薬箱そのものでした。 そして、その火花となったのが、一本のシュナップスだったのです。
崩壊の夜:一杯の酒が招いた地獄絵図
伝説として語り継がれる、混乱の夜の物語を再現してみましょう。
1788年9月21日の夜。オスマン軍の動向を探るため、オーストリア軍の軽騎兵部隊(フサール)が川の対岸へ偵察に出ました。しかし、彼らが見つけたのは敵ではなく、地元の商人からシュナップスを売る一団でした。疲弊していた兵士たちは、樽ごと酒を買い上げ、その場で酒盛りを始めます。
しばらくして、後からやってきた歩兵部隊が、酒盛りを楽しむ騎兵たちを発見し、「俺たちにもその酒を分けろ」と要求しました。 しかし、すでに酔っぱらい、エリート意識の強い騎兵たちは、「身分の低い歩兵どもにやる酒はない!」とこれを拒否。あろうことか、酒樽の周りにバリケードを築き、立てこもり始めます。
口論はすぐに取っ組み合いのケンカに発展し、混乱の中で、一発の銃声が夜の闇に響き渡りました。
この銃声を合図に、誰かが叫びます。 「トゥルチ! トゥルチ!(トルコ兵だ! トルコ兵だ!)」
この叫び声が、悪夢の引き金でした。 本物の奇襲だと信じ込んだ兵士たちはパニックに陥り、一斉に自分たちの野営地に向かって逃げ出しました。
事態を収拾しようとしたドイツ語を話す将校たちは、逃げ惑う兵士たちに大声で叫びます。 「ハルト! ハルト!(止まれ! 止まれ!)」
しかし、オーストリア軍は、ドイツ人、ハンガリー人、セルビア人、クロアチア人、イタリア人など、様々な民族の寄せ集め。ドイツ語を理解できない多くの兵士たちは、暗闇と喧騒の中、この「ハルト!」という命令を、オスマン軍の鬨(とき)の声である「アッラー!」と聞き間違えてしまったのです。
敵がすぐそこにいると確信した兵士たちのパニックは、頂点に達しました。 野営地に逃げ帰ってきた味方の騎兵部隊を、本物のオスマン軍の騎馬隊の突撃だと誤認した砲兵隊の指揮官は、あろうことか味方に向けて大砲を発射。 野営地は阿鼻叫喚の地獄と化し、兵士たちは暗闇の中、あらゆる影に向かって銃を乱射し、味方同士で殺し合いを始めたのです。
最高司令官である皇帝ヨーゼフ2世自身も、このパニックに巻き込まれ、馬から落ちて小川に転落。命からがら逃げ出したと伝えられています。
消えた1万人の謎:伝説と真実の境界線
2日後、オスマン帝国軍がカランセベシュに到着した時、彼らが見たのは、無数のオーストリア兵の死傷者が転がる、もぬけの殻となった野営地でした。彼らは一人の敵兵と戦うことなく、重要な拠点を手に入れたのです。
さて、この伝説で最も衝撃的な「1万人が死傷した」という数字は、果たして真実なのでしょうか? 結論から言うと、これは後世に作られた誇張である可能性が極めて高いです。
40年間の沈黙と、数字の独り歩き
この事件に関する最も大きな謎は、事件直後の同時代の記録がほとんど存在しないことです。この自滅劇の詳細な話が初めて歴史の記録に登場するのは、事件から40年以上も経った1831年の軍事雑誌でした。 あまりに不名誉な事件だったため、オーストリア側が公式記録を隠蔽しようとした可能性は十分に考えられます。
「1万人」という具体的な数字は、なんと事件から180年も経った1968年に、ある歴史家が典拠を示さずに書いた伝記が初出とされています。この劇的な数字が、インターネットの普及と共に「歴史的事実」として世界中に広まってしまったのです。
より信頼性の高い記録を調べると、実際の損害は数百人から、多くても1200人程度の負傷者だったと推測されています。もちろん、敵と戦わずにこれだけの損害を出したことは大失態に違いありませんが、「1万人の自滅」という伝説とは大きくかけ離れています。
なぜこの伝説は生き続けるのか?
では、なぜこの誇張された神話が、これほどまでに根強く生き残ってきたのでしょうか。 その理由は、この物語が、事実として正確かどうかを超えた、完璧な「寓話」だからです。
それは、戦争がいかに愚かで、人間の誤解がいかに破滅的な結果を招くかを、強烈かつ、どこか滑稽な形で教えてくれます。 一杯の酒を巡るケンカ、多言語軍のコミュニケーション不全、暗闇がもたらすパニック、そして無能な指揮官。軍隊が崩壊するための全ての要素が、この物語には凝縮されています。
結論:歴史のファイルに残された「究極の教訓」
カランセベシュの「戦い」は、おそらく歴史上、実際に起こった出来事ではありません。 その真相は、病と低い士気に苦しんでいたオーストリア軍が、混乱に満ちた夜間撤退の最中に、パニックから小規模な同士討ち事件を起こしてしまった、というものでしょう。
しかし、その「真実の核」は、40年以上の沈黙の間に人々の記憶の中で脚色され、増幅され、やがて「1万人が自滅した」という、戦争の不条理を象徴する不朽の伝説へと昇華したのです。
この物語が私たちに教えてくれるのは、軍隊が直面する最大の敵は、時に自分自身の内に存在するという、時代を超えた教訓です。
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