ヨーロッパ大陸をその手中に収め、「余の辞書に不可能の文字はない」と豪語した男、ナポレオン・ボナパルト。歴史上、最も偉大な軍事の天才として知られる彼がたった一度だけ、完膚なきまでに打ち負かされた戦いがあります。
その相手は、ロシア軍でもプロイセン軍でもありません。 なんと、数千匹の「ウサギの大群」だったというのです。
最強の皇帝が、ふわふわのウサギに追われて逃げ惑う…まるでコメディのようなこの逸話は、果たして本当にあった話なのでしょうか? 今回は、歴史上最も面白くて不思議なこの敗北の謎を、徹底的に解剖していきます。
語り継がれる「ウサギ襲撃事件」の全貌
まずは、200年以上にわたって語り継がれてきた伝説の「戦い」の様子を見てみましょう。
舞台は1807年7月。戦争に勝利し、まさに権力の絶頂にあったナポレオンは、祝賀会として部下たちとウサギ狩りを計画しました。 このイベントの準備を任されたのが、ナポレオンの参謀長、ベルティエ元帥です。彼は完璧な狩りのために、なんと3000匹ものウサギを用意しました。
しかし、ここに致命的なミスがありました。ベルティエが集めたのは、臆病な野生のウサギではなく、農家で飼育されていた人馴れした飼いウサギだったのです。
祝宴が終わり、狩りの合図と共に檻の扉が開かれると、信じられない光景が広がります。 ウサギたちは逃げるどころか、一斉に一人の男に向かって猛然と突進してきたのです。その標的は、皇帝ナポレオンその人でした。
おそらく、お腹を空かせた飼いウサギたちは、ナポレオンを「エサをくれる飼育員さん」だと思ったのでしょう。 最初は笑っていたナポレオン一行も、あまりの勢いに次第にパニックに陥ります。
伝説によれば、ウサギたちはまるで訓練された軍隊のように、二手に分かれてナポレオン軍の側面を突き、皇帝を包囲したといいます。 ナポレオンは乗馬用の鞭で、部下たちは棒で応戦しますが、ウサギの波は止まりません。皇帝の軍服によじ登ってくるウサギまで現れ、万策尽きたナポレオンは、屈辱的な退却を決意。帝国の馬車に逃げ込み、窓からウサギを投げ捨てながら、その場から敗走したと伝えられています。
伝説の真相を追え!すべては一人の男の「恨み」から始まった?
さて、この面白すぎる物語、果たしてどこまでが真実なのでしょうか? 実は、この劇的な「ウサギとの戦い」の物語には、裏がありました。
この逸話の最も有名な情報源は、ナポレオンの部下だったポール・ティボー男爵が残した回顧録です。しかし、この回顧録が出版されたのは、事件から約90年後、そしてティボー本人の死後50年近くが経ってからでした。
さらに決定的なのは、ティボーが、この狩りの主催者であるベルティエ元帥を個人的にひどく嫌っていたという事実です。 研究者たちは、ティボーが亡きライバルをおとしめるために、元々あった小さな話を、悪意を持って脚色したのではないかと考えています。
元ネタは「政治風刺」だった
さらに調査を進めると、この物語の元ネタと思われる記事が、1800年の革命派新聞に見つかりました。 それは、ナポレオンを「ローマ皇帝」、彼の追従者を「パンタカカ(諸悪の根源)」と揶揄した、完全な政治風刺でした。この記事では、ウサギは皇帝に襲い掛かるのではなく、足元にすり寄ってくるだけで、ナポレオンも面白がるか、少しイラっとするだけ。今語られているような「屈辱的な敗走」の場面はどこにもありません。
つまり、「ナポレオン vs ウサギ軍団」の壮絶な戦いは、政治風刺のジョークが、個人の恨みによって脚色され、長い年月を経て伝説へと姿を変えていったというのが、最も可能性の高い真相のようです。
なぜこの「ウソ」はこれほど愛されるのか?
では、なぜこの「ウソ」の物語が、歴史的事実であるかのように、200年以上も世界中の人々を魅了し続けているのでしょうか。そこには、人間の面白い心理が隠されています。
- 偉大な人の失敗が見たい!(シャーデンフロイデ) ドイツ語に「シャーデンフロイデ」という言葉があります。これは「他人の不幸を喜ぶ気持ち」という意味です。特に、ナポレオンのような偉大で、少し傲慢に見える人物が、ウサギという最も取るに足らない存在に負けるという滑稽な話は、人々の意地悪な喜びを完璧にくすぐるのです。
- 英雄も「人間」であってほしい 完璧すぎる英雄は、どこか遠い存在に感じられます。しかし、ウサギにパニックになるという情けない一面を知ることで、歴史上の偉大な皇帝が、私たちと同じ弱さを持つ「人間」に感じられ、親近感が湧いてきます。
オーストラリアの「エミュー戦争」
実は、人間が動物相手に滑稽な戦いを演じたのは、これが初めてではありません。1932年、オーストラリアでは、増えすぎた鳥の「エミュー」を駆除するために、なんと軍隊が機関銃を持って出動しました。しかし、神出鬼没なエミューの群れに翻弄され、弾薬を無駄遣いしただけで、作戦は大失敗に終わりました。 この「エミュー戦争」もまた、「人間の思い通りにはならない自然」を象徴する、面白い歴史の雑学として語り継がれています。
結論:歴史の謎が教えてくれること
ナポレオンとウサギの物語は、歴史的事実というよりは、巧みに作られた「伝説」であった可能性が非常に高いです。
しかし、この伝説がなぜ生まれ、なぜこれほどまでに愛され続けるのかを解き明かすことは、歴史そのものを知るのと同じくらい興味深いものです。
それは、私たちが権力者に対して抱く複雑な感情や、英雄の中にも人間らしさを見出したいという根源的な欲求を映し出す鏡のような物語だからです。 最強の皇帝を打ち負かした「ウサギ軍団」。その面白すぎる謎は、これからも歴史の片隅で、私たちを楽しませ続けてくれることでしょう。
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