なぜヒトラーとスターリンは「平和の言語・エスペラント」を恐れたのか?エスペラントという実験言語の希望と失敗

歴史の不思議

もし、世界中の人々が、一つの共通の言葉で自由に語り合えたとしたら、憎しみや戦争はなくなるかもしれない──。

19世紀末、民族間の対立が渦巻く東ヨーロッパで、一人のユダヤ人眼科医が抱いた、この素朴で美しい夢。その夢から生まれたのが、人工言語「エスペラント」です。その名は「希望する者」を意味します。

しかし、歴史の皮肉は残酷です。 人類の統一という高貴な理想から生まれたこの「平和の言語」は、20世紀に入ると、ナチス・ドイツソビエト連邦という、史上最も残忍な二つの全体主義国家から「危険な言語」という烙印を押され、その話者たちはスパイとして、あるいはユダヤの陰謀の一味として、容赦なく弾圧・虐殺されていきました。

なぜ、平和を目指した言語が、これほどまでに恐れられたのでしょうか? そして、その絶滅の危機を乗り越え、エスペラントはどのようにして生き延びたのでしょうか。 今回は、歴史のファイルに記録された、希望と絶望が織りなす、壮大なミステリーの真相に迫ります。


第1章:分断された世界が生んだ「希望」

この物語の主人公は、1859年、当時ロシア帝国領だったポーランドの町、ビャウィストクに生まれた、ルドヴィコ・ザメンホフというユダヤ人の眼科医です。

彼が育ったビャウィストクは、まさに「現代のバベルの塔」でした。 ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人。異なる言語、異なる宗教、異なる文化を持つ人々が、同じ街で互いに憎しみ合い、いがみ合って暮らしていました。ザメンホフは、その日常的な対立を目の当たりにし、幼い頃からこう信じるようになります。

人類を分断し、敵対させる元凶は、言葉の壁だ

この痛切な個人的経験が、彼を一つの壮大な夢へと駆り立てます。特定の民族に属さない、中立で、学びやすい共通の言語を創り、人々の間の壁を取り払うという夢です。

人類のための言語設計

1887年、ザメンホフは「ドクトーロ・エスペラント(希望する博士)」というペンネームで、自らが創り上げた言語の最初の教科書『ウヌーア・リブロ(第一の書)』を自費出版します。このペンネームが、やがて言語そのものの名前となりました。

エスペラントの設計は、彼の理想を完璧に体現したものでした。

  • 徹底した単純さと規則性: 文法に例外は一切なく、単語は見たままに発音できる。
  • 効率的な語彙: 少数の基本的な単語(語根)に、接頭辞や接尾辞を組み合わせることで、まるでレゴブロックのように無限の言葉を作り出せる。
  • 中立性: 語彙の多くはヨーロッパの言語から取られましたが、特定の国の言語ではありませんでした。

これは、単なる言語的な特徴ではありませんでした。不規則で、習得が難しく、排他的な「国語」こそが対立の元凶だと考えたザメンホフにとって、エスペラントの論理的でオープンな構造そのものが、世界平和への願いを込めた、政治的な声明だったのです。


第2章:国家なき民の誕生と「ブローニュの奇跡」

ザメンホフが蒔いた「希望」の種は、瞬く間に世界中に広がりました。 そして1905年、フランスの港町ブローニュ=シュル=メールで、歴史的な出来事が起こります。第1回世界エスペラント大会の開催です。

それまで手紙や雑誌でしか繋がっていなかった、20カ国から集まった約700人のエスペランティストたちが、初めて顔を合わせました。 その瞬間、奇跡が起こります。 イギリス人、フランス人、ポーランド人、日本人…。異なる国籍、異なる母語を持つ人々が、何の苦もなく、エスペラントで自然に会話を始め、笑い合い、心を通わせたのです。

ザメンホフは、開会の辞で涙ながらにこう語りました。 「今日、この場所にいるのはフランス人でもイギリス人でもロシア人でもない。ただ、人と人として、我々はここにいるのだ!

この「ブローニュの奇跡」は、エスペラントが机上の空論ではなく、実際に機能する生きた言語であることを、世界に証明しました。

友情の国「アミケヨ」の夢

この運動の理想主義を象徴するのが、「アミケヨ(友情の地)」を巡る、まるで童話のようなエピソードです。 当時、プロイセンとベルギーの間に、「中立モレスネ」という、どちらの国にも属さない奇妙な小国が存在しました。1908年、地元のエスペランティストが、「この国を、世界初のエスペラント国家にしよう!」と提案したのです。 この計画は大きな支持を集め、国名を「アミケヨ」と改め、エスペラントの国歌まで作られました。しかし、この小さなユートピアの夢は、第一次世界大戦の勃発によって、儚くも消え去ってしまいます。


第3章:なぜ「平和の言語」は、独裁者に憎まれたのか?

エスペラントが、国境を越えた人々の連帯を生み出せば出すほど、その存在を危険視する勢力が現れます。 20世紀最悪の二人の独裁者、アドルフ・ヒトラーヨシフ・スターリンです。

互いに敵対していたはずのナチス・ドイツとソビエト連邦。しかし、この二つの全体主義国家は、奇妙なほど同じ理由で、エスペラントを「危険な言語」とみなし、その話者たちを強烈に弾圧しました。

ナチスの十字軍:「ユダヤの陰謀」という妄想

ヒトラーは、その著書『我が闘争』の中で、エスペラントを「世界征服を企む、ユダヤ人の陰謀の道具」として名指しで非難しました。 創作者ザメンホフがユダヤ人であったこと、そして、国境や民族を越えた国際主義的な思想が、ナチスの掲げるアーリア人種の純粋性と攻撃的ナショナリズムとは、全く相容れなかったからです。

ナチスが政権を握ると、ドイツ国内のエスペラント団体は解体され、話者たちはゲシュタポの監視対象となりました。 そして、その憎悪は、ザメンホフ一族に向けられます。彼の3人の子供たちは、全員がホロコーストの犠牲となりました。息子のアーダムはワルシャワで射殺され、娘のゾフィアとリディアは、1942年にトレブリンカ絶滅収容所で殺害されたのです。

スターリンの大粛清:「スパイの言語」という濡れ衣

一方、ソビエト連邦では、当初エスペラントは「世界革命の道具」として、ある程度容認されていました。 しかし、スターリンの独裁体制が確立すると、その運命は一変します。

スターリンにとって、外国人との自由な交流は、国家の統制を脅かす最大の脅威でした。そして、まさにその国際交流を目的とするエスペラントの話者たちは、「国際的なスパイ組織の一員」という、馬鹿げた濡れ衣を着せられ、大粛清の標的となったのです。

1937年から38年にかけて、ソ連の主要なエスペランティストたちは、次々とNKVD(後のKGB)に逮捕され、処刑されていきました。その中には、ソ連エスペランティスト連盟の指導者であったエルネスト・ドレーゼンや、著名な作家ウラジーミル・ワランキンも含まれていました。

独裁者たちが本当に恐れたもの

なぜ、互いに敵対するヒトラーとスターリンが、同じ「平和の言語」を憎んだのか。 その謎の答えは、全体主義の本質にあります。 全体主義国家は、国民の忠誠心が、国家以外のものに向けられることを、何よりも恐れます。

エスペランティストたちは、国家や民族、イデオロギーを超えた、「人類」という、より大きなコミュニティに忠誠を誓っていました。彼らが持つ、国境を越えた個人的なつながりのネットワークは、独裁者たちにとって、自らの絶対的な支配を脅かす、制御不能な「癌」のように見えたのです。

皮肉なことに、「平和の言語」は、その平和を希求する思想そのものによって、対立と孤立の上に築かれた独裁体制の、不倶戴天の敵となってしまったのです。


第4章:現代に蘇る希望

第二次世界大戦の惨禍と、独裁者による brutal な弾圧を生き延びたエスペラント。その歩みは平坦ではありませんでしたが、その名の通り「希望」を失うことはありませんでした。

  • ユネスコの承認(1954年): 国連の教育科学文化機関であるユネスコが、エスペラントが国際交流に果たした成果を認め、世界エスペラント協会との協力を認める決議を採択。これは、運動にとって大きな国際的な正当性を与えました。
  • 冷戦下の奇妙な出会い(1959年): ポーランドのワルシャワで開催された世界大会に、なんと当時のアメリカ副大統領リチャード・ニクソンがサプライズで訪問。反共の闘士が、鉄のカーテンの向こう側から来た多くの社会主義者を含むエスペランティストたちと握手を交わすという、奇妙な光景が生まれました。
  • デジタル時代のルネサンス: そして21世紀、インターネットがエスペラントに、かつてない追い風をもたらします。 2015年、無料言語学習アプリ「Duolingo」でエスペラントコースが開設されると、世界中で数百万人がこの言語を学び始め、巨大なオンライン・コミュニティが形成されました。

結論:歴史のファイルに残された、果たされなかった夢と消えない希望

世界中の人々が第二言語として使う、というザメンホフの壮大な夢は、実現しませんでした。 しかし、彼のもう一つの夢、「言語を通じて、人々が国境を越えて『人と人として』出会うコミュニティを創る」という夢は、今、かつてない規模で実現しています。

その象徴が、「パスポルタ・セルヴォ」という、エスペラント版のカウチサーフィンのような国際的な宿泊提供ネットワークです。世界中のエスペラント話者が、仲間の旅行者に無料で宿を提供し、文化を超えた友情を育んでいます。

エスペラントは世界を変えることはなかったかもしれません。しかし、世界中に散らばる何十万もの人々のために、小さな、しかし真にグローバルな世界を創造しました。 弾圧と迫害の嵐を乗り越え、今なお生き続けるこの言語の物語は、一つの理想が持つ、驚くべき生命力の証です。

その名に込められた「希望」こそが、この言語の最も強靭な特質だった。歴史のファイルに残されたエスペラントの物語は、そのことを静かに、しかし力強く、私たちに語りかけているのです。

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