なぜスウェーデンは一夜にして左側通行をやめたのか?国民の習慣を書き換えた「Hの日」の謎

歴史の不思議

1967年9月3日、日曜日、午前4時50分。スウェーデン全土が、息を殺して沈黙しました。 国営ラジオが歴史的な瞬間に向けてカウントダウンを放送する中、国内のすべての車が一斉に道路の左側で停止。そして午前5時ちょうど、合図と共に、何百万ものドライバーが、慎重に車を道路の反対側、右側へと移動させました。

この、わずか10分間の出来事は「Dagen H(Hの日)」と呼ばれ、233年間続いた左側通行の歴史に、一夜にして終止符を打った瞬間でした。

これは、単なる交通ルールの変更ではありません。それは、一国の国民全員の身体に染みついた「習慣」を、国家の意思によって強制的に書き換えるという、壮大な社会実験でした。 しかし、この物語で最も不思議なのは、国民投票で83%もの人々が、この変更に猛反対していたという事実です。

なぜ、政府は民意を無視してまで、この無謀とも思えるプロジェクトを断行したのか? そして、なぜ予測された大混乱や大惨事は起きず、この「10分間の革命」は、歴史的な大成功を収めることができたのでしょうか。今回は、スウェーデンの歴史に刻まれた、奇妙で大胆な国家プロジェクトの謎に迫ります。


第1章:左側の孤島 – スウェーデンが抱えた「危険な矛盾」

まず、なぜスウェーデンだけが、ヨーロッパ大陸で「左側の孤島」となっていたのでしょうか。 その理由は歴史の中に埋もれていますが、第二次世界大戦後、この「孤立」は、日々の暮らしに潜む、極めて危険な矛盾を生み出すことになります。

戦後の経済成長で、スウェーデンではマイカーブームが到来。しかし、そこで売られていた車の90%以上が、右側通行用の「左ハンドル車」だったのです。これは、アメリカやヨーロッパ大陸からの輸入車が市場を占め、国内メーカーのボルボでさえ、輸出のために左ハンドル車を生産していたためでした。

この「左側通行なのに、左ハンドル」という組み合わせは、特に片側一車線の狭い道路での追い越しを、命がけの行為に変えました。運転席が道路の縁石側にくるため、対向車線の視界がほとんど確保できず、正面衝突事故が多発する大きな原因となっていたのです。

さらに、陸続きで右側通行のノルウェーやフィンランドとの国境では、混乱による事故が絶えませんでした。 車の普及が進めば進むほど、この構造的な欠陥は、国家の安全を脅かす時限爆弾となっていきました。


第2章:国民 対 議会 – 83%の「ノー」を覆した決断

通行区分を変更すべきだ、という議論は、1920年代から何度も議会で行われてきました。 そして1955年、政府はついに国民投票を実施。しかし、その結果は、政府の予想を遥かに超える、圧倒的な「ノー」でした。

投票者の82.9%が、現状維持である左側通行を支持したのです。

この背景には、変化に対する人々の根源的な恐怖心がありました。反対派は「あなたはお母さんが殺されるのを見たいですか?」といった、極めて感情的なスローガンを使い、変更がもたらすかもしれない悲劇を人々に訴えかけました。

しかし、政府と議会は、この民意を無視するという、驚くべき決断を下します。 国民投票から8年後の1963年、議会は右側通行への移行法案を、賛成294、反対50という圧倒的多数で可決させたのです。

これは、専門家と政治家が「国民の利益のためならば、国民自身の意思を覆すことができる」と判断した、極めて大胆なトップダウンの決断でした。彼らは事実上、国民に対してこう宣言したのです。 「我々は、あなた方自身よりも、あなた方にとって何が最善かを知っている」と。


第3章:4年間のカウントダウン – 国家の神経回路を書き換える巨大事業

こうして、歴史的なプロジェクトの火蓋が切られました。移行日である「Hの日」まで、残された時間は4年間。国家の神経回路を書き換えるための、壮大な準備が始まったのです。

その規模は、まさに国家総動員でした。

  • 道路標識: 全国で約36万枚の標識を交換。新しい標識は、当日まで黒いビニールで覆われ、その時を待ちました。
  • 道路標示: 道路の中央線や車線も、国際標準の白色に塗り替えられ、当日まで黒いテープで隠されました。
  • 公共交通機関の大改革:
    • バス: 約8,000台のバスが、右側にドアを取り付ける大改造を受け、約1,000台の新車が購入されました。不要になった古いバスは、同じく左側通行のパキスタンやケニアに輸出されるという、面白い副産物も生まれました。
    • 路面電車の終焉: コストがかかりすぎるという理由で、ストックホルムなどの主要都市では、これを機に路面電車が廃止され、バスに置き換えられました。

このプロジェクトは、単なる交通ルールの変更ではなく、スウェーデンのインフラ全体を近代化する、一大事業となったのです。


第4章:心理学を駆使したPR大作戦

しかし、このプロジェクト最大の課題は、インフラの変更ではなく、国民の「心」を変えることでした。 83%もの人々が反対した計画を成功させるため、政府は心理学者の助言のもと、歴史上最もクリエイティブで、徹底した広報キャンペーンを展開します。

  • キャッチーなロゴとブランディング: Hの文字を矢印が貫く、シンプルで覚えやすいロゴが作られ、あらゆる場所に登場しました。
  • 国民を巻き込むユーモア: このロゴは、牛乳パックからお菓子、そしてなんと男性用・女性用の下着にまでプリントされました。これは、国民が常に変更を意識するよう、ユーモアを交えて心理的抵抗を和らげる狙いがありました。
  • 大ヒットしたテーマソング: 国営テレビはテーマソングのコンテストを開催。優勝したロックバンド、ザ・テルスターズの「Håll dig till höger, Svensson(スヴェンソン、右側を走れ)」は、国民的な大ヒット曲となりました。

この4年間にわたる徹底的なキャンペーンは、官僚的な命令を、国民が共有する、少し風変わりな「国家的冒険」へと昇華させることに成功しました。人々は、自分だけでなく、国中の誰もがこの変化に備えているという安心感を共有し、心の準備を整えていったのです。


第5章:10分間の革命、そして驚くべき結末

そして運命の日、1967年9月3日。 午前4時50分、国営ラジオのカウントダウンと共に、スウェーデン中の車が道路の左側で一斉に停止します。 そして午前5時、合図と共に、全ての車が静かに右側へと移動。再び停止し、10分間の静寂の後、新しい時代の交通が始まりました。

世界中が、大混乱と大惨事を予測していました。しかし、翌日の月曜日の朝、スウェーデンの道路は、驚くほど平穏でした。

  • 報告された交通事故はわずか125件で、これは前週までの月曜日の平均を下回る数字でした。
  • そして、死亡事故は、一件も報告されなかったのです。

専門家は、この奇跡的な結果を、「知覚されたリスクの急上昇」によるものだと分析しました。ドライバーたちは、慣れない交通ルールに対して極度に注意深くなり、その慎重さが、逆に事故を防いだのです。

結論:史上まれにみる成功、国家変革の教訓

Dagen Hは、歴史上稀に見る、大規模な社会変革プロジェクトの成功例です。 その成功は、国民の強い反対を乗り越えてでも改革を断行した政治の強い意志、4年という歳月をかけた緻密な計画、そして国民の心を動かした創造的なコミュニケーションの賜物でした。

この壮大な経験は、スウェーデンの交通安全への意識を根底から変えました。Dagen Hの成功がもたらした「システム全体を変革できる」という自信は、後に、交通事故による死者・重傷者をゼロにすることを目指す画期的な政策「ビジョン・ゼロ」の導入へと繋がっていきます。

Dagen Hは、単なる交通史の面白い逸話ではありません。それはある社会が、共通の利益のためにいかにして深く根付いた習慣を乗り越え、大きな変革を成し遂げることができるかを示す、力強い教訓として、歴史のファイルに刻まれています。 計画、コミュニケーション、そして国民の共有意識。その力が、この「10分間の革命」を、奇跡的な成功へと導いたのです。

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