歴史は時として、信じられないほど些細な出来事が大事件の引き金となることがあります。1859年、アメリカとイギリスという二つの大国を全面戦争の瀬戸際にまで追い込んだのは、なんとジャガイモ畑を荒らした、たった一匹の豚の死でした。
「豚戦争(Pig War)」として知られるこの紛争は、国家の威信、領土的野心、そして血気盛んな軍人たちの暴走が絡み合い、最終的には軍艦5隻と数百の兵士が睨み合う一触即発の事態にまで発展します。
驚くべきことに、この13年近くに及んだ対立の唯一の犠牲者は、そもそもの原因となった豚一匹のみ。
この記事では、国際紛争がいかに馬鹿げた理由で燃え上がりうるかを示しながら、この滑稽にして深刻な「豚戦争」の全貌を、その背景から結末まで詳細に追っていきます。
この驚くべき事件を時系列に表すと下記の表となります。
年月日 | 出来事 |
1846年 | オレゴン条約締結。しかし、国境線の曖昧さからサンフアン諸島の領有権が未確定となる。 |
1859年6月15日 | 米国人農夫ライマン・カトラーが、ハドソン湾会社の豚を射殺。事件が発生する。 |
1859年7月27日 | 米陸軍ウィリアム・ハーニー准将の命令により、米軍がサンフアン島を占領。 |
1859年8月 | 英国が軍艦を派遣。米英両軍が対峙し、軍事的緊張が頂点に達する。 |
1859年11月 | 交渉の結果、両軍が100人以下の兵力で島を共同占領することに合意。 |
1860年-1872年 | 12年間にわたる、米英両軍による奇妙な共同占領期間が続く。 |
1872年10月21日 | ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世による国際仲裁の結果、サンフアン諸島は米国領と決定。 |
1872年11月25日 | 英国海兵隊が島から撤退し、「豚戦争」は完全に終結する。 |
第1章:一枚の地図、二つの解釈、そして一つの火種
すべての混乱の根源は、1846年に結ばれたオレゴン条約にありました。米英間の国境を定めたこの条約ですが、海上の境界線について「バンクーバー島と大陸を隔てる海峡の中間」と記しただけで、具体的な海峡名を明記しなかったのです。
この地域にはハロ海峡とロザリオ海峡という二つの主要な水路があり、その間にはサンフアン諸島が浮かんでいました。
- アメリカの主張:国境は西側のハロ海峡。サンフアン諸島は米国領。
- イギリスの主張:国境は東側のロザリオ海峡。サンフアン諸島は英国領。
この致命的な曖昧さにより、サンフアン島は主権の及ばない「係争地」となりました。島には、イギリスのハドソン湾会社が設立した羊牧場と、アメリカの「明白な天命」を信じるアメリカ人入植者たちが、互いを不法な存在と見なしながら同居するという、一触即発の状況が生まれていたのです。
第2章:運命の豚、その最後の一鳴き
1859年6月15日、その日はやって来ました。
アメリカ人農夫ライマン・カトラーは、自分のジャガイモ畑がハドソン湾会社の大きな黒豚に荒らされているのを発見。度重なる被害に堪忍袋の緒が切れ、彼はその豚をライフルで射殺してしまいます。
当初、カトラーは豚の飼い主であるチャールズ・グリフィンに10ドルの支払いを申し出ました。しかし、激昂したグリフィンは100ドルという法外な金額を要求。交渉は決裂し、グリフィンは英国当局にカトラーの逮捕を求めました。
この瞬間、豚の値段を巡る単なる隣人トラブルは、「アメリカ国民が、アメリカの領土で、英国の法によって裁かれようとしている」という、国家の主権と尊厳に関わる問題へとすり替わったのです。
第3章:将軍たちの暴走と、大艦隊の集結
カトラーら入植者からの保護要請は、米陸軍のウィリアム・S・ハーニー准将の元に届きました。アンチ英国派として知られ、「肉屋」の異名を持つこの血気盛んな将軍は、独断で部隊の派遣を決定します。
1859年7月27日、後に南北戦争で名を馳せるジョージ・ピケット大尉率いる米軍部隊がサンフアン島に上陸し、占領を宣言。これに激怒したバンクーバー島総督ジェームズ・ダグラスは、英国海軍の出動を要請します。
事態は急速にエスカレート。8月末には、米軍461名と大砲14門に対し、英国は軍艦5隻、大砲70門以上、兵員2,140名という圧倒的な戦力を島の沖合に集結させ、両軍は一触即発の状態で睨み合いました。
アメリカとイギリスの戦力は以下の通りです。
アメリカ合衆国 | 大英帝国 | |
兵員数 | 461名 | 2,140名 |
艦船 | 輸送船1隻 | 軍艦5隻 |
大砲 | 14門 | 70門以上 |
この異常な軍事対峙の裏には、当時深刻化していたアメリカ国内の南北対立の影があったという説もあります。南部出身のハーニーやピケットが、国内の亀裂から目をそらすために意図的に対外危機を煽ったのではないか、というものです。
第4章:「豚一匹のために、二大国は戦えず」
全面戦争が目前に迫る中、事態を鎮静化させたのは、現場の指揮官たちの「理性」でした。
英国太平洋艦隊司令長官ロバート・L・ベインズ少将は、総督からの攻撃命令に対し、歴史に残る言葉でこれを拒否します。
馬鹿げている。豚一匹を巡るいさかいで、二つの偉大な国家を戦争に巻き込むつもりはない。
一方、アメリカのブキャナン大統領は、火消し役として米陸軍総司令官ウィンフィールド・スコット将軍を派遣。老将スコットは粘り強い交渉の末、ダグラス総督との間で前代未聞の妥協案をまとめ上げました。
それは、両軍が兵力を100人以下に削減し、領有権が決定するまで島を「共同軍事占領」するというものでした。
第5章:奇妙な共同生活と忘れられた犠牲
こうして、サンフアン島では12年間にわたる奇妙な共同生活が始まりました。
かつて睨み合った米英両軍の兵士たちは、互いのキャンプを訪問し、酒を酌み交わし、共にスポーツに興じました。アメリカ独立記念日には英国兵が祝いに訪れ、ヴィクトリア女王の誕生日にはアメリカ兵が祝杯をあげるという、驚くほど友好的な関係が築かれたのです。
しかし、この心温まる物語の裏には、忘れられた犠牲がありました。この12年間で、戦闘ではなく事故や病気で少なくとも23名の兵士が命を落としています。
さらに深刻だったのは、この土地の本来の所有者であった先住民、沿岸セイリッシュ族への影響です。米英両国が勝手に引いた「国境」によって彼らの生活圏は分断され、伝統的な生活様式は破壊されました。両国にとっての「平和的解決」は、先住民にとっては悲劇の始まりだったのです。
第6章:皇帝陛下の仲裁と、豚が引いた国境線
12年間の共同占領の後、両国はついに領有権問題の最終解決に乗り出します。仲裁人として白羽の矢が立ったのは、意外な人物、誕生したばかりのドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世でした。
1872年10月21日、ヴィルヘルム1世は、米国の主張を支持し、国境線はハロ海峡を通るものとする最終裁定を下します。これにより、サンフアン諸島は正式にアメリカ領となりました。
1859年の豚の射殺事件から13年、長きにわたる紛争はついに終わりを告げ、国境線は、一匹の豚がきっかけとなった長い回り道の末に、ようやく確定したのです。
終章:国際問題の「しょうもなさ」と、一匹の豚が残した教訓
「豚戦争」は、国際紛争がいかに些細なきっかけで燃え上がり、国家の威信という名のもとにエスカレートしうるかを示す、歴史上の一級の寓話です。
個人の意地、現場の暴走、そして国家の面子。これらの連鎖は、現代の国際紛争にも通じる普遍的な危険性をはらんでいます。
しかし同時に、この事件は、ベインズ提督やスコット将軍のような個人の理性が、破局的な戦争を食い止める力を持つことも証明しました。
最終的に、アメリカとカナダの国境線を引いたのは、条約の文言でも軍隊の威嚇でもなく、一匹の豚の抑えがたい「ジャガイモへの食欲」だったのかもしれません。この歴史の皮肉は、大国同士が繰り広げる深刻な国際政治の裏に、時に信じられないほどの「しょうもなさ」が潜んでいることを、私たちに教えてくれるのです。
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