1828年、ドイツ・ニュルンベルクの路上に、一人の少年が迷い込んできました。彼はまともに歩けず、言葉もほとんど話せず、自分が誰で、どこから来たのかさえ知りませんでした。その手には、彼の数奇な運命を物語る2通の謎めいた手紙が握られていました。
少年の名は、カスパー・ハウザー。
彼は本当に、暗い地下牢に16年間も幽閉されていた「野生児」だったのか? それとも、ヨーロッパ中を騙した天才的な詐欺師だったのか? あるいは、王位継承の陰謀に巻き込まれ、歴史から抹殺された悲劇の王子だったのか?
最新のDNA鑑定によって一つの説が覆された今もなお、深まる謎。ヨーロッパ史最大のミステリー、カスパー・ハウザー事件の真相に迫ります。
ニュルンベルクの謎:見知らぬ若者の出現
1828年5月26日、聖霊降臨祭の月曜日。バイエルン王国のニュルンベルクに、一人の少年が突如として姿を現しました。彼は当惑し、おぼつかない足取りで路上をさまよっていました。その手には、2通の手紙が入った封筒が握られていました。
謎の手紙と限られた言葉
1通は騎兵連隊の大尉に宛てたもので、差出人は「1812年に赤子だったハウザーを預かり、家から一歩も出さずに育てた」と主張し、彼を兵士にするか「絞首刑にする」よう求めていました。もう1通は母親を名乗る人物からのもので、彼の名はカスパー、1812年生まれで、父は亡くなった騎兵だと記されていました。
しかし、後の筆跡鑑定では、この2通の手紙が同一人物によって書かれたことが示唆されます。
尋問に対し、彼は「父のように騎兵になりたい」「馬だ!馬だ!」と繰り返すばかり。やがて警察署で、彼は初めて自分の名前「カスパー・ハウザー」と書いたのです。
矛盾した所見
彼の足の裏は柔らかく、まるで長年歩いていなかったかのようでした。しかし、その一方で、階段を問題なく登る姿も目撃されています。ほぼ無知を装いながらも、多少の読み書きができ、金銭を認識することもできました。
この出現当初からの矛盾は、彼が本物の被害者であると信じる者と、巧妙な詐欺を疑う者という、二つの陣営を生み出すことになります。
カスパーの語り:暗闇の独房で過ごした半生?
後にカスパー自身が語ったところによると、彼の人生は驚くべきものでした。
物心ついた頃から、彼は藁が敷かれただけの暗く小さな独房に、完全に一人で閉じ込められていたというのです。食事は毎朝置かれるパンと水のみ。時折、水に薬が盛られ、眠っている間に髪や爪が切られていたと主張しました。
世話人の顔は一度も見たことがなく、解放される直前に現れた謎の男に、歩き方といくつかの言葉、そして自分の名前の書き方を教えられ、ニュルンベルクに置き去りにされた、と彼は語りました。
監禁話の矛盾点
この衝撃的な物語は多くの人々の同情を引きましたが、いくつかの重大な矛盾も指摘されています。
- 健康状態:長年の監禁と栄養失調を主張したにもかかわらず、彼の健康状態は良好でした。
- 天然痘の予防接種痕:彼の腕には、明らかに天然痘の予防接種の痕がありました。これは、彼が幼少期に外界や医療専門家と接触していた決定的な証拠であり、生涯にわたる完全な隔離という彼の話と真っ向から対立します。
- 急速な学習能力:当初は「半ば白痴」と見なされながらも、彼は驚異的な速さで言語や知識を習得していきました。これは、長期の社会的・言語的剥奪を受けた人間としては、極めて異例なことでした。
新しい世界へ:教育、観察、そして後見人たちの変心
ニュルンベルク市に養子として迎えられたカスパーは、様々な後見人のもとで教育を受け、ヨーロッパ中の注目を集める存在となります。
ダウマーの指導と超感覚の開花
最初の本格的な後見人となった学校教師ゲオルク・フリードリヒ・ダウマーのもとで、カスパーの才能は開花します。読み書き、絵画、そしてチェスを驚くべき速さで習得しました。
ダウマーはまた、カスパーが持つとされる並外れた感覚能力を記録しています。
- 視覚:暗闇で文字を読み、遠くの物を見分けることができた。
- 嗅覚:花の匂いで気分が悪くなり、暗闇で葉の匂いだけで木の種類を識別できた。
- その他:磁石に強く反応したり、雷雨の際には静電気で苦痛を感じたりした。
移り変わる後見人と評価
しかし、カスパーの後見人は次々と変わっていきます。ダウマーの後、彼を引き取ったビーベルバッハ家の夫人は、彼を「途方もない虚言癖」「偽装の術」を持つと厳しく非難。彼の後援者となったイギリス貴族スタンホープ卿も、当初は彼の出自探しに巨額を投じましたが、やがて彼の信憑性を疑い、最終的には詐欺師と結論付けました。
最後の後見人となった厳格な教師ヨハン・ゲオルク・マイヤーとの関係も険悪なものでした。初期の同情が、やがて欺瞞への疑念へと変わっていく。このパターンは、カスパーの短い公的な人生を通じて繰り返されることになります。
相次ぐ襲撃と謎の死:自作自演か、それとも陰謀か?
カスパーの人生は、3度にわたる謎の襲撃事件によって、さらに劇的な様相を呈します。
- 最初の襲撃(1829年):ダウマーの家の地下室で、フードの男に額を切られたと主張。しかし、直前に嘘を巡ってダウマーと口論しており、同情を引くための自傷行為が疑われました。
- ピストル事故(1830年):ビーベルバッハ家で、ピストルが暴発し頭部に負傷。これも事故を装った自傷が疑われました。
- 致命的な刺傷(1833年):アンスバッハの宮廷庭園で見知らぬ男に胸を刺され、3日後に死亡。現場からは、鏡文字で書かれた謎のメモが入った紫色の財布が発見されました。
最後の事件の真相
この最後の事件もまた、自作自演の疑いが濃厚でした。メモの筆跡や折り方がカスパー特有のものであったこと、庭園に犯人の足跡がなかったことなどから、捜査当局は自傷行為を強く疑いました1。
多くの研究者は、彼がスタンホープ卿の関心を再び引くために自らを傷つけ、誤って致命傷を負わせてしまったのではないかと考えています。
年月日 | 出来事 |
1828年5月26日 | ニュルンベルクに出現 |
1829年10月17日 | 最初の襲撃疑惑(切り傷) |
1830年4月3日 | 「ピストル事故」 |
1833年12月14日 | アンスバッハ宮廷庭園での致命的な刺傷事件 |
1833年12月17日 | カスパー・ハウザー死去 |
謎の解明へ:バーデン公子説とDNA鑑定の結論
カスパー・ハウザーの正体を巡っては、様々な説が飛び交いましたが、最も有名でロマンチックなものが「バーデン公国の世継ぎ公子」説です。
これは、彼が1812年に生まれたバーデン大公家の世継ぎ公子であり、王位を狙う陰謀によって赤子の頃にすり替えられ、幽閉されていたというものです。この説は、バイエルンの高名な法学者アンゼルム・フォン・フォイエルバッハらによって支持され、ヨーロッパ中を熱狂させました。
しかし、この長年の謎に、現代科学が終止符を打ちます。
1996年と2024年に行われた最新のDNA鑑定の結果、カスパー・ハウザーのミトコンドリアDNAは、バーデン家の母系系統とは明確に一致しないことが決定的に証明されたのです。彼が公子であった可能性は、ほぼ完全に否定されました。
説 | 主な論拠 | 主な反論・証拠 |
バーデン公国の世継ぎ公子 | 世間の噂、顔の類似性、フォイエルバッハらの支持 | 歴史的文書、DNA鑑定による明確な否定 |
詐欺師 | 物語の矛盾、自傷行為の疑い、後見人たちの証言 | 生涯にわたる欺瞞の明確な動機の欠如 |
王族以外の犯罪被害者 | 公子説否定後の代替仮説 | 具体的な証拠や手がかりの欠如 |
「ヨーロッパの子」:カスパー・ハウザーが遺したもの
カスパー・ハウザーの真実の物語が何であったにせよ、彼の存在は19世紀のヨーロッパ社会に絶大な影響を与え、「ヨーロッパの子」と呼ばれました。
彼の事例は、児童発達、言語獲得、「氏か育ちか」といったテーマに関する議論を巻き起こし、哲学、心理学、そして犯罪学の分野にも影響を与えました。その物語は、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画『カスパー・ハウザーの謎』をはじめ、数多くの文学、演劇、芸術作品のインスピレーションの源泉となり続けています。
彼の遺産は、単なる歴史的なパズルを解くことだけではありません。そのような人物が、なぜ社会をこれほどまでに魅了し、二分させたのか。彼の物語は、人間性、社会、そしてアイデンティティの構築に関する根本的な問題を探求するための、強力なシンボルであり続けているのです。
結論:謎は続く
最新のDNA鑑定は、カスパー・ハウザーがバーデン家の公子ではなかったことを明らかにしました。しかし、それは謎の終わりではなく、新たな謎の始まりでした。
もし彼が公子でなく、地下牢の話が作り話だったとしたら、彼は一体誰で、どこから来たのか? 彼の本当の幼少期は、どのようなものだったのか? そして、彼を死に至らしめた最後の刺し傷は、本当に自らの手によるものだったのか?
これらの中心的な疑問は、おそらく永遠に解明されることはないでしょう。カスパー・ハウザー事件が決定的に解決できないという事実こそが、その永続的な魅力の源泉なのかもしれません。
彼の物語は、歴史とは、そして人間とは何かを私たちに問いかけ続けます。カスパー・ハウザー――その名は、永遠の謎と共に、これからも語り継がれていくことでしょう。
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