「次の将軍は、くじ引きで決めます」
もし現代でこんな発言が飛び出せば、誰もが耳を疑うでしょう。しかし室町時代、それは国家の運命を左右する、神の意志を問う究極の選択でした。
そして、その神聖なる籤(くじ)によって選ばれた男、足利義教(あしかが よしのり)は、後に「万人恐怖」と恐れられる冷酷な独裁者へと変貌を遂げます。
神に選ばれたはずの将軍は、なぜ暴君となったのか? その運命を決めた「くじ引き」の裏には、巧妙に仕組まれた人間の策略はなかったのか?
この記事では、室町幕府最大のミステリー、「くじ引き将軍」足利義教の選出劇の真相と、その波乱に満ちた生涯に迫ります。
背景:なぜ「くじ引き」という手段が選ばれたのか?
15世紀初頭、室町幕府は深刻な危機に直面していました。四代将軍・足利義持が後継者を指名しないまま急死したのです。幕府の権力基盤はいまだ盤石ではなく、有力な守護大名たちが虎視眈々と幕政の主導権を狙っていました。
後継者候補は、義持の弟である4人の僧侶。 青蓮院の義円(後の義教)、梶井門跡の義承、大覚寺門跡の義昭、そして相国寺の永隆です。
この中から人間の話し合いで一人を選べば、必ずや有力大名たちの思惑がぶつかり合い、派閥抗争、ひいては大規模な内乱に発展しかねません。この権力の空白という非常事態を乗り切るため、幕府の重鎮たちが頼ったのが、人間の意志を超越した「神意」でした。
神意としての籤:中世日本の神聖なる伝統
現代の「くじ引き」が持つ偶然性やギャンブルのイメージとは異なり、中世日本の「籤」は、神仏の意志を確かめるための神聖な儀式でした。特に、人間の合議では結論が出ない重大な局面において、その決定に超越的な権威を与えるために用いられたのです。
その舞台として選ばれたのが、京都の石清水八幡宮。武神であり、源氏、ひいては足利氏の氏神として絶大な権威を持つ聖地です。この場所で籤を引くという行為そのものが、結果に抗いがたい正統性を与えるための、計算され尽くした政治的パフォーマンスでもありました。
運命の一引き:神託か、それとも人間の画策か?
正長元年(1428年)、石清水八幡宮にて、運命の籤引きが執行されました。この神聖な儀式を発案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれ、幕政に絶大な影響力を持っていた三宝院満済です2。籤は満済が作成し、管領の畠山満家が引いたとされています。
結果、選ばれたのは青蓮院門跡の義円でした。
しかし、この選定劇には古くから「八百長説」が根強く囁かれています。特に、籤を提案した満済と引いた畠山満家が、事前に義円を将軍に据えることを画策していたという見方が有力です。事実、義教の就任後、満済や満家は幕府内でさらにその影響力を強めています2。
八百長の真偽は定かではありません。しかし、たとえ裏で人間の作為があったとしても、「神意に委ねる」という神聖な儀式そのものが、新たな将軍の正統性を担保し、幕府内外の混乱を(少なくとも表面的には)収拾するために不可欠だったのです。
役割 | 名前(僧名/俗名) | プロフィール・関与 |
候補者(選出) | 義円/足利義教 | 義持の弟、青蓮院門跡。籤により選出される。 |
候補者 | 梶井義承 | 義持の弟、梶井門跡。後に天台座主となる。 |
候補者 | 大覚寺義昭 | 義持の弟、大覚寺門跡。後に義教と対立し討たれる。 |
候補者 | 相国寺永隆 | 義持の弟、相国寺。後に鹿苑院院主となる。 |
籤の提案者 | 三宝院満済 | 醍醐寺座主、「黒衣の宰相」。籤引きを提案した中心人物。 |
有力守護大名 | 畠山満家 | 管領。籤を引いたとされ、八百長説の中心人物の一人とされる。 |
神に選ばれた将軍の暴走:「万人恐怖」の独裁政治
将軍の座に就いた義教は、当初固辞していたのが嘘のように、強権的な政治手腕を発揮し始めます。その目的は、弱体化した将軍権力を回復し、強力な中央集権体制を築くことでした。
彼は幕府に反抗的な有力守護大名を次々と弾圧し、強大な力を持つ比叡山延暦寺を武力で屈服させ、関東の支配者であった鎌倉公方・足利持氏を滅ぼします(永享の乱)。
しかし、その手法は次第に苛烈さを増し、「万人恐怖」と称される恐怖政治へと変貌。些細なことで家臣を罰し、将軍の前で笑っただけで所領を没収するなど、その圧政を伝える逸話は数知れません3。
この常軌を逸した恐怖政治の背景には、籤で選ばれたという出自へのコンプレックスがあったのかもしれません。自らの権威を絶対的なものとして示すため、彼は反対勢力を徹底的に叩き潰す必要があったのです。
しかし、その強権が生んだ深い怨嗟は、やがて最悪の形で彼に跳ね返ってきます。嘉吉元年(1441年)、有力守護大名・赤松満祐に宴の席で暗殺されるのです(嘉吉の変)。神に選ばれた将軍の、あまりにも呆気ない最期でした。
暴君か、改革者か?「くじ引き将軍」の再評価
義教に対する歴史的評価は、長らく「冷酷な暴君」というものでした。しかし近年、その治世を再評価する動きも出てきています。
彼の強硬な政策は、将軍権力を回復し、ばらばらになりかけた国家をまとめようとする、非情だが断固たる試みであったと見るのです。その権力集中への執念から、後の織田信長や豊臣秀吉の「先駆者」と評されることさえあります。
義教の治世は、将軍の権威を一時的に高めましたが、その暗殺は幕府の力を著しく失墜させ、応仁の乱、そして戦国時代へと続く動乱の時代を招く一因ともなりました。
神託から宝くじへ:失われた「籤」の神聖性
足利義教の時代、神意を問う神聖な儀式であった「籤」は、時代と共にその意味を大きく変えていきました。
江戸時代には賭博としての「富籤(とみくじ)」が登場し、戦後には財源確保を目的とした「宝くじ」が制度化されます。かつて神託を宿した籤は、神聖性を失い、確率論と娯楽の世界へと移っていったのです。
この変容は、社会が合理主義へと移行し、公的な領域における宗教の役割が変化していった、より広範な歴史の流れを反映しています。
結論:足利義教と「くじ引き」が現代に問いかけるもの
足利義教の異例な選出劇は、中世日本における宗教と政治の複雑な関係を浮き彫りにします。
神意を問うという神聖な儀式の裏で、人間の政治的思惑が渦巻いていた可能性。そして、神に選ばれたという正統性が、逆に独裁と恐怖政治を生み出す要因となり得たという逆説的な歴史。
この「くじ引き将軍」の物語は、歴史とは、公的な理想と人間の生々しい動機が絡み合いながら形作られていくものであることを、私たちに力強く思い起こさせます。
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