火山活動で生まれた幻の島『フェルディナンデア』列強の領土争いを生んだ島は…自然が解決した?

地理の不思議

序論:炎から生まれ、国々が欲しがった島

1831年6月下旬、シチリア島沖の地中海で不思議な現象が起こっていました。シチリア島の港町シャッカを揺るがすたくさんの地震、沸騰する海水、空気中に広がる硫黄の嫌な臭い、そして水面に浮かぶたくさんの魚の死骸。それは静かな海の底で何かが目覚めようとしているという不吉な前兆でした。

この奇妙な出来事を最初に見た人々の話が残っています。7月7日、ブリッグ船「グスタフ」号の船員たちは、激しく泡立つ海で「海の怪物」のようなものを見た、と報告しました。当時の人々にとって、海底火山の噴火という現象は、日常の経験をはるかに超えていました。理解できない自然の大きな力を説明するために、彼らはまず海にまつわる昔からの伝説に頼ったのです。この「海の怪物」という認識は、未知のものに対する人間の根本的な反応を示すと同時に、やがて地質学者のコンスタン・プレヴォのような人による実際の観察へと変わっていく、科学の時代の始まりを告げるものでした。

やがて「海の怪物」の正体が明らかになります。それは、海底火山の噴火によって突然、海面に姿を現した新しい島だったのです。この「フェルディナンデア島」と後に呼ばれることになる、ごく短い期間だけ存在した陸地は、地質学、芽生え始めたナショナリズム(国家主義)、そして帝国の野望がぶつかり合う歴史の舞台となりました。その短い生涯は、ある歴史家が「地政学的な茶番劇(geopolitical farce)」、あるいは「スウィフト風の小品(Swiftian bagatelle)」と評したように、自然の気まぐれの前では人間の力がどれほどむなしいものであるかを暴き出す、一つの教訓話でした。


第1部:創生

第1章:深淵からの響き

フェルディナンデア島が誕生した海域は、シチリア島とチュニジアの間に位置する「シチリア海峡のフレグレイ平野(Campi Flegrei del Mar di Sicilia)」として知られる、地質学的に非常に不安定な火山地帯です。この島は単独の現象ではなく、「グラハム火山地帯(Graham Volcanic Field)」と呼ばれる、十数個の海底火山が集まった場所の一つでした。この海域では、過去2万年の間に、生まれては消える短命な島が何度も作られてきた歴史があります。

1831年の出来事の最初の兆候は、6月28日に始まりました。シャッカ、メンフィ、マルサーラといったシチリアの町々で広範囲にわたるたくさんの地震が感じられました。目撃者たちは、「沸騰する水」と海から立ち上る有毒なガスを報告しています。そして7月10日、ナポリのブリガンティン船「テレジーナ」号の船長ジョヴァンニ・コッラーオは、海面から高さ60フィート(約18メートル)まで轟音(ごうおん)とともに立ち上る「水と煙の巨大な柱」を目撃し、「雷のような大音響」を聞きました。これが噴火の最初の公式な目撃記録となり、後に島のたくさんの名前の一つ「コッラーオ島」の由来となりました。

第2章:スルツェイ式噴火の光景

この噴火は、現代の火山学では「スルツェイ式噴火」として分類されます。これは、高温のマグマと海水が接触することで発生する爆発的な水蒸気マグマ噴火の一種で、その名は1963年にアイスランド沖で同様の噴火によって形成されたスルツェイ島に由来します。フェルディナンデア島を構成していたのは、固まった溶岩流ではなく、火山灰、火山礫、スコリアといった、もろく崩れやすい「テフラ」と呼ばれる物質でした。この地質学的な特徴こそが、島の短い運命を決定づけたのです。

島の成長速度は驚異的でした。7月17日には、はっきりと陸地として認識できるようになりました。そして8月上旬の最も大きかった時期には、高さ約65メートル(213フィート)、周囲は約4.8キロメートル(3マイル)にまで達しました。島の中央には平地が広がり、そこには二つの小さな湖さえできていました。大きい方の湖は直径20メートルほどあったといいます。カミッロ・デ・ヴィートやR・アートンといった当時の画家たちは、この劇的な光景を絵に描き残しています。


第2部:短い岩を巡る争奪戦

この新しく生まれた島を巡る各国(国々)の動きは、あまりにも性急(せいきゅう)で混沌(こんとん)としていました。以下の年表は、わずか半年の間に繰り広げられた国際的な争奪戦の概要です。

日付(1831年)出来事主要人物命名された名前
6月28日シチリア沿岸で最初のたくさんの地震が観測される
7月10日噴火の最初の公式な目撃ジョヴァンニ・コッラーオ船長両シチリア王国コッラーオ島
7月17日最初の公式な上陸と領有権主張ミケーレ・フィオリーニ両シチリア王国
8月2-3日イギリスによる上陸と領有権主張ハンフリー・フレミング・センハウス大佐イギリスグラハム島
8月17日両シチリア王国による公式な領有権主張両シチリア王国フェルディナンデア島
9月29日フランス調査団による上陸と領有権主張コンスタン・プレヴォフランスユリア島
12月17日島の完全な消滅が公式に報告されるナポリの士官両シチリア王国

第3章:戦略的な獲物

1831年の地中海は、ヨーロッパの強い国々にとって重要なチェス盤でした。ジブラルタルからマルタ、そして東地中海へと続く重要な航路の真ん中に突然現れたこの島は、計り知れないほどの戦略的な価値を持っていました。

各国の動機は明確でした。

  • イギリス: 当時、世界最強の海軍力を持っていたイギリスは、マルタよりもヨーロッパ大陸に近い戦略的拠点を確保し、地中海の支配権をさらに確固たるものにしようとしました。
  • 両シチリア王国: 「自国の岸から見える場所」に出現した島であり、その領有は主権(国の支配権)と国家の威信(国の名誉)に関わる問題でした。国王フェルディナンド2世は、イギリスの素早い行動に激怒したと伝えられています。ブルボン家の貴族たちの間では、島の浜辺にリゾート地を建設するという、どこか牧歌的な(のどかな)計画さえ語られていました。
  • フランス: 北アフリカに植民地を広げていたフランスにとって、この島はイギリスの地中海支配に対抗し、アフリカ沿岸の利益を守るための重要な拠点となり得ました。また、新しく成立した七月王政の下、国家の威信を科学的な探求という形で示す絶好の機会でもありました。
  • スペイン: 他の海軍国に遅れを取るまいとする対抗心から、領有権を主張しました。

第4章:旗を掲げる競争

この戦略的な岩塊を巡る競争は、三者三様の主張の仕方となって現れました。それは単なる政治的な競争ではなく、19世紀における三つの異なる世界観の衝突でもありました。

シチリアのオール(7月17日) 最初の行動を起こしたのは、地元のシチリア人でした。税関職員のミケーレ・フィオリーニは、地元の漁船を雇って島に渡り、領有の証として一本のオール(櫂)を突き立てました。これは、近接性と地域の慣習に基づいた、素朴で実用的な主張の表明でした。国家の威信をかけた大げさな儀式ではなく、地元住民による自然発生的な行動であり、「ここは自分たちのものだ」という最も根本的な主張の形と言えるでしょう。

イギリスのライオン(8月2-3日) 次に現れたのは、大英帝国の象徴でした。イギリス海軍のハンフリー・フレミング・センハウス大佐は、島に上陸すると、ユニオンジャック(イギリス国旗)を掲げ、英国王室の名において正式に領有を宣言しました。これは、当時の国際法(あるいはその欠如)における「無主地の先占(terra nullius)」(持ち主のいない土地は最初に占有した国のものになるという原則)に基づいた、帝国主義的な権力の行使でした。オールが地域共同体の主張であるならば、国旗は国家による公式で、軍事力に裏打ちされた法的な主張の象徴でした。

シチリアの反撃(8月17日) イギリスの横暴に憤慨したフェルディナンド2世は、コルベット艦「エトナ」を派遣しました。彼らはイギリスの旗を撤去し、ブルボン家の旗を掲げ、島を正式にフェルディナンデア島と命名しました。この行動は、イギリスとシチリアの艦船が互いに睨み合う、一触即発の事態(今にも争いが始まりそうな状況)にまで発展しました。

フランスのトリコロール(9月29日) 最後に到着したのは、科学的合理主義を体現するフランスの調査団でした。地質学者コンスタン・プレヴォに率いられた一行は、島の地質学的調査を主目的としながらも、調査団の一員がフランス国旗を掲げました。プレヴォがこの噴火を「シャンパンの栓を抜いたようだ」と詩的に表現したことは有名です。彼の行動は、領土を単なる政治的・軍事的な対象としてだけでなく、科学的探求の対象として捉える新しい時代の到来を告げていました。

このように、フェルディナンデア島は、地域主義(オール)、帝国主義(国旗)、そして科学的合理主義(地質学者のハンマー)という、19世紀のヨーロッパを動かしていた三つの異なる「知」と「所有」の様式が、互いに競い合う舞台となったのです。

第5章:名前のバベル(乱立)

この領有権争いの不条理さを最もよく表しているのが、島に付けられた名前の乱立です。少なくとも7つもの名前が提案され、それぞれが所有権を主張するための物語を作り出そうとする試みでした。

名前主張者由来・意味
フェルディナンデア島両シチリア王国国王フェルディナンド2世にちなんで
グラハム島イギリス海軍大臣サー・ジェームズ・グラハムにちなんで
ユリア島フランス島が出現した7月(July)と、七月王政にちなんで
コッラーオ島ジョヴァンニ・コッラーオ船長最初の公式な目撃者であるコッラーオ船長にちなんで
ホタム島イギリス海軍フィロメル号乗組員地中海艦隊司令官ヘンリー・ホタム中将にちなんで
ネリタ島スペイン近くの砂州の名、あるいは「黒いもの」の意
シャッカ島チャールズ・ライエル/地元住民最も近いシチリアの町の名にちなんで

第3部:避けられぬ終わり

第6章:自然の実験室

強い国々が軍事拠点を夢想する一方で、科学者たちはこの島を全く異なる視点で見ていました。フランスのコンスタン・プレヴォやシチリアのカルロ・ジェメッラーロといった地質学者にとって、フェルディナンデア島は火山活動を研究するための完璧な「自然の実験室」でした。プレヴォの調査結果は、権威ある『フランス地質学会会報(Bulletin de la Société Géologique de France)』に掲載され、科学界に貴重な知見をもたらしました。

この科学的な視点は、面白い歴史的な論争を生み出しました。センハウス大佐が8月2-3日に島に上陸し、登頂したという公式報告に対し、ジェメッラーロとプレヴォは、それぞれの科学報告書の中で異議を唱えたのです。彼らは当時の島の地面は「熱すぎ、暖かく、柔らかく、まだ固まっていなかった」ため、人間が登ることは不可能だったと主張しました。

この食い違いは、歴史の記録が主観的であるという問題を浮き彫りにします。センハウスは、勲章を受けた海軍士官としての名誉のために、自分の功績を誇張したのでしょうか。それとも、後から到着した科学者たちが、理論に基づいて誤った推測をしたのでしょうか。この論争は、歴史が単一の客観的な真実ではなく、しばしば異なる専門分野や報告基準を持つ者たちの間で競い合う物語の交渉によって作られることを示しています。センハウスの軍事報告は任務達成を目的とし、科学者たちの報告は地質学的な原則に基づいています。この矛盾は、物語に曖昧さの層を加え、歴史の解釈がいかに複雑であるかを教えてくれます。

第7章:海が自分の物を取り戻す

外交的な駆け引きや科学的な論争が続く間にも、島そのものは着実に死に向かっていました。固まっていないテフラで構成された島は、地中海の絶え間ない波の侵食作用に抗う術を持っていませんでした。9月に島を訪れたホフマンは、「島は日ごとに縮小している」と記録しています。

崩壊は急速に進みました。10月末には主要な火口が消滅し、12月8日には熱水の柱が立つのみとなりました。そして1831年12月17日、ナポリの士官たちは、島が完全に海面下に没したことを公式に報告しました。わずか半年足らずで、大国を巻き込んだ地政学的な論争は、自然の力によってあっけなく幕を下ろされたのです。最終的な勝者は、人間ではなく自然でした。


第4部:残り続ける幽霊

第8章:地球規模の犯人?科学的な結末

フェルディナンデア島の物語は、その消滅後も科学界を長く賑わせることになりました。1831年に観測された世界的な気温低下や、太陽が青や緑に見えるといった異常な大気現象の原因として、この島の噴火が長年有力視されてきたのです。作曲家フェリックス・メンデルスゾーンも、その夏のヨーロッパを襲った破壊的な寒さについて書き残しています。

しかし、近年の科学技術の進歩が、この200年来の謎に終止符を打ちました。グリーンランドや南極の氷床コアを高解像度で分析した結果、1831年の地層から「クリプトテフラ」と呼ばれる微細な火山灰が発見されました。その化学組成を分析したところ、フェルディナンデア島の火山岩とは一致せず、遠く離れた千島列島のシムシル島にあるザヴァリツキー・カルデラの火山灰と完璧に一致することが判明したのです。これにより、1831年の地球規模の気候変動の真犯人はザヴァリツキー火山であり、フェルディナンデア島はその容疑者リストから外されることとなりました。

第9章:主権のこだま

フェルディナンデア島が位置するこの海域は、古代から火山の神話と伝説に彩られてきました。その中でも特に有名なのが、古代ギリシャの哲学者エンペドクレスの物語です。伝説によれば、自らの神性を証明するため、彼はエトナ山の火口に身を投じ、火山は彼のブロンズ製のサンダルだけを吐き出したといいます。不思議なことに、フェルディナンデア島を含む巨大な海底火山体全体は、現在「エンペドクレス」と名付けられる可能性が示唆されています。

この島の物語は、21世紀になってもなお、その奇妙な魅力を失っていません。2000年から2002年にかけて、この海域でたくさんの地震が観測され、島が再び姿を現すのではないかという憶測が飛び交いました。すると、1831年の領有権争いが、まるで亡霊のように現代に蘇ったのです。

この現代のおかしな争いのクライマックスは、フェルディナンド2世の子孫であるカルロ・ディ・ボルボーネ(カストロ公)が行った儀式でした。彼は、重さ150kgの大理石の銘板を海底の山頂に沈めさせました。その銘板にはこう刻まれていました。「かつてフェルディナンデアと呼ばれたこの土地は、シチリアの人々に属し、そして永遠に属し続けるであろう」。

この行動は、1831年の出来事の完璧な繰り返しでした。人間が自然に対して恒久的な(永久的な)所有権を主張しようとする試みです。しかし、その結末はあまりにも皮肉なものでした。永遠の所有を誓ったその巨大な銘板は、わずか半年後、12個の破片となって発見されたのです。漁具による偶然の破壊か、あるいは何者かによる意図的な破壊工作かは定かではありません。

この出来事は、1831年の物語が単なる過去の遺物ではないことを示しています。国家のアイデンティティや領土への執着という人間の感情は、時代を超えて存続します。そして、恒久性を願って作られた人間のシンボル(国旗であれ、大理石の銘板であれ)が、いかに脆く、儚い(はかない)ものであるかをも示しています。砕け散った銘板は、消え去った島そのものの現代的な比喩(メタファー)であり、人間の野心と自然の力との間の根本的な対立が、今も何ら変わっていないことを証明しているのです。

結論:フェルディナンデアという不朽の比喩

フェルディナンデア島の物語は、その誕生から消滅、そして現代にまで続く奇妙な後日談に至るまで、時代を超えた、そしてどこかブラックユーモアに満ちた教訓話として私たち読者の前に存在します。それは、帝国の傲慢さ、国家主義の不条理さ、そして自然という究極的な主権者の前での人間の無力さを描き出しています。

この島が燃え上がらせた情熱と、そのあまりにも短い生涯は、地質学的な時間の壮大な規模から見れば、人間の対立がいかに束の間の(つかの間の)ものであるかを痛感させます。イタリアのジャーナリスト、フィリッポ・ダルパがこの物語を「権力の滑稽さについての比喩」と評したように、フェルディナンデア島は、海の中から現れては消える幻の陸地としてだけでなく、人間の野心のむなしさを映し出す、永遠の鏡として、歴史の中にその姿を留めているのです。

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