序章:世界を変えた一撃
1695年9月、インド洋。海賊フリゲート艦「ファンシー号」が、巨大なムガル帝国の船「ガンズウェイ号」に忍び寄っていました。大きさ、武装、乗員数、そのすべてにおいて「ファンシー号」は劣勢だったのです。しかし、その船上には計り知れないほどの富と、歴史の流れを変えるほどの大きな賭けがありました。両船が対峙し、緊張が最高潮に達したその時、轟音とともに事態は急変します。「ガンズウェイ号」自身の甲板で、その強力な大砲の一門が暴発したのです。この偶然の一撃は船員をなぎ倒し、甲板を混乱の渦に陥れました。それは、後に歴史上最も儲かった海賊行為として記録される戦いの潮目を変え、ひいてはイギリスとインドの関係を永遠に変えることになる運命の一撃だったのです。
このたった一度の海賊行為は、その首謀者であるヘンリー・エイヴリーを、わずか2年という短い活動期間にもかかわらず、歴史上最も悪名高い海賊の一人へと押し上げました。この襲撃は、単なる略奪行為にとどまらず、ムガル帝国とイギリス東インド会社の間に深刻な外交危機を引き起こし、まだ黎明期にあった貿易会社に超大国のごとく振る舞うことを強いたのです。そして、史上初の世界規模での国際指名手配へと発展しました。これは、一人の男の大胆不敵な賭けが、いかにして世界中に衝撃を与え、血と財宝、そして歴史上最大の未解決ミステリーの一つという遺産を残したかの物語です。
第一部:一等航海士から「海賊王」へ
チャールズ2世号の不満分子たち
物語の始まりは、襲撃事件の前年、スペイン北部の港町ア・コルーニャに遡ります。ロンドンの裕福な商人サー・ジェームズ・フーブロンが率いる投資家グループが組織した「スペイン遠征船団」という、準合法的な私掠船事業がありました。この船団には46門の大砲を搭載したフリゲート艦「チャールズ2世号」も含まれており、スペイン国王カルロス2世の勅許を得て、西インド諸島でフランスの船舶を拿捕する任務を帯びていました。 しかし、計画は初めからつまずいていました。ア・コルーニャまでの航海は、通常2週間で着くところを5ヶ月も要しました。港に到着してからもマドリードからの正式な法的書類が届かず、船員たちはさらに数ヶ月間、港に足止めされることになったのです。船員たちの間では、自分たちは「事実上のスペインの捕虜」だという不満が渦巻いていました。
この長期にわたる停滞と先の見えない状況が、反乱の温床となりました。海賊の黄金時代を象徴するようにこの反乱は冒険心からではなく、むしろ労働争議から生まれたのです。約束の給料が支払われず、劣悪な環境に置かれた船員たちが、抑圧的なシステムに対して実力行使に出るというのは、この時代の海賊行為の根底に流れる共通のテーマでした。 決定的な亀裂を生んだのは、賃金の問題でした。船員たちは6ヶ月ごとに給料が支払われる契約でしたが、船長のギブソンは支払いを拒否しました。もし支払えば、船員たちはもはや船に縛られることなく、脱走してしまうだろうと恐れたためです。この約束の反故は、船員たちの怒りに火をつけました。彼らにとって、これは単なる金銭問題ではなく、尊厳をかけた闘争でした。こうして「チャールズ2世号」の不満は、爆発寸前の火薬庫と化したのです。
ヘンリー・エイヴリーという男
この火薬庫に火をつけたのが一等航海士のヘンリー・エイヴリーでした。エイヴリー(アベリーとも綴られ、ジョン・エイヴリーやベンジャミン・ブリッジマンといった偽名も使いました)の出自は謎に包まれていますが、イギリス海軍での勤務経験を持つベテラン船乗りであったことは確かです。彼はイギリス海軍の戦艦「HMSルパート」で士官候補生として勤務し、後には奴隷商人として活動した経歴も持ちます。1694年、彼は「チャールズ2世号」の一等航海士として、その豊富な経験を買われていました。 同時代の人々によるエイヴリーの人物評は、彼の複雑な性格を浮き彫りにしています。「中肉中背で、やや太り気味、陽気な顔色」と描写される一方で、彼は優れた航海士であり、「大胆で気立ては良いが、時に横柄で落ち着きがなく、一度でも侮辱されれば決して許さない」という一面も持っていました。このカリスマ性、専門的能力、そして冷酷さの組み合わせが不満を募らせる船員たちにとって理想的なリーダー像を形作ったのです。
無血の反乱
1694年5月7日の夜反乱は実行されました。それは周到に計画され、なんと血を流すことなく遂行されたのです。エイヴリーとその共謀者たちは、合言葉を使って別の船「ジェームズ号」の仲間を「チャールズ2世号」に引き入れました。その合言葉は「酔いどれの甲板長は乗っているか?」という、船内の雰囲気を物語るようなものでした。その時、ギブソン船長は病気か、あるいは泥酔して船室に閉じこもっており、抵抗する術を持たなかったのです。
この反乱劇にはエイヴリーの冷静沈着さを示す象徴的な逸話が残っています。「ジェームズ号」のハンフリーズ船長が沖へと動き出す「チャールズ2世号」に向かって反乱が起きていると叫んだのに対し、エイヴリーは落ち着き払って「それは重々承知している」と返答したといいます。港に停泊していた「ジェームズ号」は「チャールズ2世号」に砲撃を開始しましたが、エイヴリーは巧みに船を操り、夜の闇に紛れて逃走に成功しました。
船の指揮権を完全に掌握したエイヴリーは、追放されるギブソン船長にこう告げたとされます。「今や私がこの船の船長だ。私はマダガスカルへ向かい、私自身と私に加わった勇敢な仲間たちのために富を築くのだ」。この言葉は権威への反逆と富と自由を求める海賊たちの精神を明確に示しています。エイヴリーの反乱は単なる船の乗っ取りではなく、抑圧された水夫たちが自らの運命を切り開こうとする海賊の黄金時代のはじまりでした。
ファンシー号の誕生
公海上で船員たちは満場一致でエイヴリーを新しい船長に選出しました。これは海賊船がしばしば採用した民主的なプロセスであり、商船や海軍の厳格な階級社会とは対照的でした。船長としての最初の仕事として、エイヴリーは船名を「チャールズ2世号」から「ファンシー号」へと改名しました。この改名は、過去との決別と、これから始まる海賊稼業への決意を象徴する行為でした。 しかし、エイヴリーは単なる船長に留まりませんでした。彼は戦略家であり技術者でもありました。彼は「ファンシー号」をインド洋という広大な狩場で獲物を追うための究極の捕食者に改造することを命じました。船の上部構造物を大胆に取り払い甲板を削る「レイジー化」と呼ばれる改造を施したのです。この改造により「ファンシー号」は喫水が浅くなり、大幅な軽量化と高速化を実現しました。後に東インド会社の船長が「彼はあまりにも俊敏で、追いつくことは到底できない」と嘆いたように「ファンシー号」はインド洋で最も速い船の一つへと生まれ変わったのです。この改造はエイヴリーが衝動的な無法者ではなく、長期的な視野を持って計画を練る計算高い人物であったことを示しています。彼は広大なインド洋において、獲物を確実に捕らえるためには、火力よりも速力が決定的な武器になることを理解していました。この戦略的な判断こそが後の歴史的な大成功の礎となったのです。
第二部:パイレーツ・ラウンドと輝ける獲物
海賊行為の新天地:パイレーツ・ラウンド
エイヴリーが目指したインド洋は17世紀末の海賊たちにとって新たなフロンティアでした。この時代、海賊の活動は「パイレーツ・ラウンド」と呼ばれる第二段階に入っていたのです。これはカリブ海での活動が困難になった海賊たちがアメリカ大陸からアフリカ大陸を南下し、インド洋や紅海へと活動の場を移したことを指します。この航路はトーマス・テューのような先駆的な海賊によって開拓されていました。 この地理的なシフトにはいくつかの要因がありました。第一にカリブ海ではイギリス海軍のプレゼンスが増大し、ポートロイヤルのようなかつての海賊の拠点が取り締まりを強化し始めていたことです。第二にインド洋はヨーロッパの海軍力が及ばない事実上の無法地帯でした。そして何よりも魅力的だったのはその海域を行き交う富の規模でした。当時のインドの経済力はヨーロッパをはるかに凌駕しており、絹やキャラコといった高価な奢侈品を積んだ船は、海賊にとって理想的な獲物だったのです。 このパイレーツ・ラウンドにおいてマダガスカル島は、海賊たちの戦略的な拠点となりました。ヨーロッパのどの国の支配も及ばないこの島は、長距離航海の途中で船を修理し、食料を補給し、次の襲撃計画を練るための安全な避難所を提供しました。エイヴリーもまたこの海賊たちの楽園を拠点として、次なる獲物を狙っていました。
獲物:最盛期のムガル帝国
エイヴリーが狙いを定めた獲物は、単なる商船ではありませんでした。それは、当時世界で最も豊かで強力な国家、ムガル帝国の富そのものだったのです。17世紀後半、皇帝アウラングゼーブ(在位1658-1707年)の治世下でムガル帝国はその絶頂期にありました。1700年頃の帝国のGDPは現代の価値で21兆ドルに相当すると推定され、全世界の工業生産の約25%を占めていました。農業税を基盤とし、ヨーロッパからの金銀と引き換えにインドの産品を輸出する経済システムは、帝国に莫大な富をもたらしていたのです。ヨーロッパ人旅行者たちが語る「偉大なるムガル」の伝説は、決して誇張ではありませんでした。 この巨大帝国を率いるアウラングゼーブは複雑で恐るべき君主でした。彼は若い頃、暴走する戦象に槍一本で立ち向かうほどの勇敢さを示し、厳格で敬虔なイスラム教徒でもありました。しかし、その権力への道は血塗られていました。父である皇帝シャー・ジャハーン(タージ・マハルの建設者)を幽閉し、兄弟たちを次々と殺害して帝位を簒奪したのです。彼の治世は49年にも及び、帝国の領土は最大となりましたが、その統治は矛盾をはらんでいました。先代までの宗教的融和策を放棄し、非イスラム教徒に人頭税(ジズヤ)を復活させたことは、国内に多くの反乱の火種を生んでいたのです。また、デカン高原での数十年にも及ぶ終わりなき戦争は、帝国の財政を著しく疲弊させ始めていました。 エイヴリーの襲撃はこのように一見すると盤石だが、内実には財政的・政治的な緊張を抱え始めていた巨大帝国の中枢を突くものでした。それは、単に二隻の船の戦いではなく、ヨーロッパの周縁で生まれた移動的で捕食的な海賊ネットワークと、アジアの心臓部に君臨する巨大な陸上帝国の非対称な衝突であったのです。海賊たちは、ムガル帝国にとって海上の安全保障が二の次であったという構造的な脆弱性を的確に見抜いていたのです。
メッカ巡礼船団:計り知れない価値を持つ標的
エイヴリーが狙った具体的な標的は、帝国の富と権威そして信仰の象徴でした。それは帝国の最も裕福な港スーラトから、聖地メッカへと向かう毎年恒例の巡礼(ハッジ)船団でした。この船団は何千人もの巡礼者を運ぶだけでなく、帰路には一年間の貿易で得た莫大な利益、すなわち金銀の硬貨を大量に積載していたのです。 その中でも旗艦である「ガンズウェイ号」(ペルシャ語で「ガンジ・サワーイー」、”莫大な宝”を意味する)は、アウラングゼーブ帝自身の所有物であり、帝国の威信そのものでした。この船を襲うことは、単なる強盗ではなく世界最強の君主の顔に泥を塗るに等しい、極めて挑発的な行為であったのです。アウラングゼーブ帝の権威が、国内の度重なる戦争と宗教政策によって揺らぎ始めていた時期であったことを考えれば、この襲撃がもたらすであろう衝撃は、金銭的な損失をはるかに超えるものでした。それは皇帝の威信に対する直接的な挑戦であり、その反響は必然的に激烈なものとなる運命にあったのです。
第三部:紅海の入り口での待ち伏せ
ならず者たちの同盟
1695年8月、エイヴリーと「ファンシー号」は、紅海の入り口に位置する戦略的な要衝、マンデブ海峡に到着しました。ムガル帝国の船団を待ち伏せるには、絶好の場所だったのです。そこでエイヴリーは、同じ目的を持つ5隻の海賊船と合流しました。その中には、パイレーツ・ラウンドの先駆者として名高いトーマス・テュー船長の「アミティ号」も含まれていました。その他ジョセフ・ファレル船長の「ポーツマス・アドベンチャー号」、トマス・ウェイク船長の「スザンナ号」、ウィリアム・メイ船長の「パール号」、リチャード・ウォント船長の「ドルフィン号」が艦隊を形成しました。 この海賊連合艦隊の提督として、船長たちはヘンリー・エイヴリーを選出しました。当時トーマス・テューの方が海賊としての名声も経験も上であったにもかかわらず、この決定が下されたことはエイヴリーの卓越したリーダーシップと彼の乗艦「ファンシー号」の圧倒的な戦闘力を物語っています。46門の大砲と高速性能を誇る「ファンシー号」を擁するエイヴリーは、440人以上の海賊たちを率いる総司令官となったのです。
追跡と最初の拿捕
海賊艦隊は待ち伏せを続けたが、25隻からなるムガル帝国の船団本隊は、夜陰に紛れて彼らの網をすり抜けてしまいました。しかし、幸運にも2隻の船が船団から遅れていました。護衛艦の「ファテー・ムハンマド号」と、最大の獲物である「ガンズウェイ号」です。 海賊たちは直ちに追跡を開始しました。この追跡劇の序盤で、悲劇が起こります。トーマス・テューの「アミティ号」が「ファテー・ムハンマド号」に追いつき、戦闘を開始しました。しかし、激しい砲撃戦の最中、「ファテー・ムハンマド号」から放たれた一弾がテューの腹部を直撃。彼は即死したのです。パイレーツ・ラウンドの伝説的な開拓者は、あっけない最期を遂げました。船長を失った「アミティ号」の乗組員は意気消沈し、降伏したのです。この出来事は、海賊稼業がいかに危険で、成功と死が紙一重であるかを浮き彫りにします。テューの死は、同じ戦場で最終的に大勝利を収めるエイヴリーの成功を、より一層際立たせる劇的な対比となっています。 数日後、エイヴリーの艦隊が「ファテー・ムハンマド号」に追いつきました。テューとの戦闘で消耗していたか、「ファンシー号」の火力に怖気づいたのか、「ファテー・ムハンマド号」の抵抗はほとんどありませんでした。エイヴリーの部下たちはやすやすと船を制圧し、4万から6万ポンド相当の財宝を略奪しました。これは莫大な額ではありましたが、エイヴリーにとっては前菜に過ぎませんでした。彼は捕虜となっていたテューの元乗組員たちを解放し、自らの戦力に加えたのです。そして、真の獲物である「ガンズウェイ号」を追って、再び帆を上げました。
「莫大な宝」を巡る戦い
「ガンズウェイ号」は海賊たちがこれまで対峙したことのない、恐るべき敵でした。1,600トンという巨体に、62門から80門の大砲を装備し、マスケット銃で武装した400人から500人の兵士、さらに600人以上の乗客を乗せていたのです。戦力だけを見れば、海賊艦隊が到底かなう相手ではありませんでした。 しかし、戦いの女神はエイヴリーに微笑みました。戦闘の火蓋を切った「ファンシー号」の舷側砲火は、信じがたいほどの幸運によって、決定的な効果をもたらしたのです。第一に、先述の通り、「ガンズウェイ号」の甲板で大砲の一門が暴発し、自らの砲手を吹き飛ばし、船内を大混乱に陥れました。この事故は、ムガル帝国側の大砲の整備不良や品質の低さを示唆しており、強大な帝国の足元に潜む脆弱性を露呈させたのかもしれません。第二に、エイヴリーの放った砲弾が「ガンズウェイ号」のメインマストを直撃し、へし折ったのです。これにより、「ガンズウェイ号」は航行能力を失い、巨大な的と化しました。 この勝利は、エイヴリーのリーダーシップ、彼が改造した「ファンシー号」の性能、そして純粋な幸運という三つの要素が奇跡的に組み合わさった結果でした。もし、あの大砲が暴発せず、マストへの一撃がなければ、歴史は全く違うものになっていたかもしれません。 航行不能となり、指揮系統が混乱したムガル船に対し、「ファンシー号」は横付けしました。エイヴリーの部下たちが次々と乗り込んでいく。甲板上では、2時間から3時間に及ぶ壮絶な白兵戦が繰り広げられました。ムガル側の兵士たちも勇敢に戦いましたが、歴戦の海賊たちの猛攻の前に、ついに力尽きました。船長のムハンマド・イブラヒムは捕らえられ、かくして、歴史上最も豊かな船は、海賊たちの手に落ちたのです。
第四部:血と黄金の財宝
歴史上最大の獲物
「ガンズウェイ号」から奪われた富の総額は、想像を絶するものでした。約50万枚の金貨と銀貨、無数の宝石、銀製の杯、その他貴重品が含まれていました。 当時の価値の推定額は、情報源によって大きく異なります。ムガル帝国当局は損失額を60万ポンドと主張しました。一方、責任を問われたイギリス東インド会社(EIC)は、賠償額を低く抑えるためか、32万5,000ポンドと見積もりました。海賊たちが「ガンズウェイ号」から奪った額は32万5,000ポンドから60万ポンド、「ファテー・ムハンマド号」からの4万から6万ポンドと合わせると、その総額はまさに天文学的数字となるのです。 この金額の現代的価値は、計算方法によって異なりますが、60万ポンドという数字は、今日の1億1,500万ポンドから1億4,100万ドルに相当するとされます。より控えめな32万5,000ポンドという見積もりでさえ、2億ドル以上に達するという試算もあります。いずれにせよ、これは歴史上、一個人の海賊による単独の襲撃としては、疑いなく史上最高額の略奪でした。エイヴリーの部下たちは、一人当たり約1,000ポンドの分け前を得たとされるが、これは当時の一般船員が生涯かけても稼げないほどの金額であったのです。 この価値の食い違いは、単なる会計上の誤差ではありません。それは、事件後に繰り広げられたムガル帝国と東インド会社との間の、高度な政治的駆け引きを反映しています。莫大な賠償を要求したいムガル側は損失額を最大化し、支払いを最小限に抑えたい東インド会社側は最小化しようとしました。数字そのものが、地政学的な交渉の道具となっていたのです。
表1:ムガル船団からの略奪品の価値評価
| 船舶 | 推定略奪額(ポンド) | 現代価値(概算) |
| ガンズウェイ号 | 325,000 ~ 600,000 | 1億1,500万ポンド ~ 2億ドル以上(諸説あり) |
| ファテー・ムハンマド号 | 40,000 ~ 60,000 | 数百万ドル(推定) |
| 合計 | 365,000 ~ 660,000 | 1億ポンド以上、あるいは2億ドル以上(現代価値で) |
恐怖の宴:伝説の暗黒面
しかし、この莫大な富は、血と涙によって贖われたものでした。ロマンティックな海賊物語とは裏腹に、「ガンズウェイ号」拿捕後の数日間は地獄絵図そのものであったのです。 この惨劇を記録した最も重要な情報源は、同時代のムガル帝国の歴史家ハーフィー・ハーンです。彼は船内に知人がおり、生還者の証言を自らの著書『ムンタハブ・アル=ルバーブ』に詳細に記しています。彼の記録や後に捕らえられたエイヴリーの部下たちの供述によれば、海賊たちは数日間にわたって残虐行為の限りを尽くしたのです。 彼らは乗客や船員が隠し持っている財宝のありかを白状させるため、拷問を繰り返しました。これは無差別な暴力ではなく、利益を最大化するための冷酷で計算された手段でした。この時代の海賊行為が非合法ながらも一つの「ビジネス」であったことを示す、身の毛もよだつ証拠です。 さらに船に乗っていた多くの女性(その中にはムガル帝国の高官の妻やメッカからの巡礼者も含まれていました)は、組織的に陵辱されました。ハーフィー・ハーンはその名誉を守るため、多くの女性が自ら海に身を投じたり、短剣で自害したりしたと悲痛な筆致で記録しています。後世の一部ではエイヴリーを擁護する声もあったが、ムガル側の生存者の証言とエイヴリー自身の部下の供述が一貫していることから、彼がこの恐怖の支配に直接的な責任を負っていたことは疑いようがありません。
二重の裏切り
略奪を終えた後、エイヴリーはさらなる狡猾さを見せます。彼は他の海賊船長たちを説得し、奪った全ての財宝を最も武装の整った自分の船「ファンシー号」で一括して保管するのが最も安全だと提案したのです。他の船長たちがこれに同意すると、エイヴリーは夜の闇に紛れて艦隊から静かに離脱し、「ガンズウェイ号」から奪った財宝のすべてを独り占めにしたのです。この裏切り行為により、エイヴリーとその直属の部下たちは、歴史的な獲物の大部分を手にすることになりました。
第五部:皇帝の怒り、会社の恐慌
帝国の屈辱
打ちひしがれた「ガンズウェイ号」がようやくスーラト港に帰り着くと、略奪、巡礼者の殺害、そして高貴な女性たちの陵辱というニュースは、瞬く間に帝国中に広まり、民衆の激しい怒りを引き起こしました。皇帝アウラングゼーブは、自らの所有物と臣民に対するこの前代未聞の攻撃に激怒したのです。 皇帝とその宮廷は、これが単なる独立した海賊の仕業であるとは信じませんでした。当時、私掠行為と海賊行為の境界線が曖昧であったことを考えれば、イギリス東インド会社が裏で糸を引いているに違いないと確信したのです。 アウラングゼーブの報復は迅速かつ苛烈でした。彼は直ちにスーラト在住の全てのイギリス人の逮捕を命じ、その中には東インド会社の責任者であるサー・ジョン・ゲイヤーも含まれていました。さらにボンベイ、スーラト、ブローチ、アグラ、アーメダバードにあった会社の主要な5つの商館を閉鎖し、インドにおけるイギリス勢力の中心地であるボンベイ市への全面的な軍事攻撃も辞さない構えを見せたのです。インドにおけるイギリスの存在そのものが、風前の灯火となりました。
この事件は、東インド会社を単なる営利企業から、国家のような責任を負う存在へと変貌させる転換点となりました。一私企業が、第三者(海賊)が公海上で犯した犯罪の責任を、外国の主権者(ムガル皇帝)から問われるという異常事態に直面したのです。生き残るために、東インド会社は外交交渉、戦争賠償金に等しい補償の支払い、そして国際的な海路の安全確保という、通常は国家が担うべき役割を果たすことを余儀なくされました。この時、インド洋の海上警備をイギリス海軍に代わって保証したことが、一世紀後に東インド会社がインドの事実上の支配者となるための制度的・心理的な布石となったのです。
史上初の世界規模の指名手配
東インド会社はパニックに陥りました。彼らの莫大な利益を生む事業全体が、ムガル皇帝の慈悲一つにかかっていたからです。皇帝をなだめるため、彼らは異例の譲歩を行いました。まず、盗まれた財宝の全額を補償することを約束したのです。 次に、東インド会社はイギリス本国政府に強力な圧力をかけました。これを受け1696年7月、イギリス枢密院はエイヴリーとその乗組員を「ホスティス・フマーニ・ゲネリス(人類共通の敵)」として公式に非難し、当時としては破格の500ポンドの懸賞金をエイヴリーの首にかけました。 しかし、東インド会社はそれで満足しませんでした。自らの必死の姿勢を示すため、会社は私財を投じ、懸賞金を前代未聞の1,000ポンドに倍増させたのです。エイヴリー(偽名ブリッジマン)とその部下たちの名が記されたこの布告は、印刷され、英語圏の全世界に配布されました。こうして、記録に残る歴史上初めての、世界規模の国際指名手配が開始されたのです。さらにエイヴリーは、今後他の海賊に与えられる可能性のある国王の恩赦(Acts of Grace)からも、明確に除外されました。 この国際指名手配は、国際法と情報ネットワークの発展における画期的な出来事でした。インド洋で起きた犯罪に対し、インドからの外交的圧力を受けロンドンで法的措置が取られ、その追跡はアメリカ植民地からイギリス諸島に至るまで全世界で展開されました。これは、経済的な必要性が、国家間の協力と広域な情報共有を促した初期の事例であり、17世紀末の世界がすでに繋がり始めていたことを示しています。
第六部:海賊王の亡霊
ナッソーの隠れ家
世紀の強奪の後、エイヴリーとその部下たちは大西洋を横断し1696年4月下旬、バハマのニュープロビデンス島(ナッソー)に到着しました。当時のナッソーはイギリス帝国の辺境に位置する統治の行き届かない島で、悪名高い海賊の巣窟として知られていました。 ここでエイヴリーは再びその狡猾さを発揮します。ヘンリー・ブリッジマン船長という偽名を使い、自分たちをアフリカから来た無許可の奴隷商人と偽ったのです。そして、島の総督ニコラス・トロットに対し、金、象牙、火薬、そして強力な武装船「ファンシー号」そのものを含む、莫大な賄賂を申し出ました。 トロット総督はこの申し出を受け入れました。彼には、重武装した海賊たちを拒絶する力はなく、またフランスによる攻撃の脅威が噂される中、彼らの存在は島の防衛力強化にも繋がると考えたのです。総督は、海賊たちが持つ不審な外国鋳造の硬貨には目をつぶり、彼らの上陸を許可しました。
絞首台の正義:乗組員たちの運命
しかし、安息の地は長くは続きませんでした。「ブリッジマン船長」の正体と世界規模の指名手配のニュースがナッソーに届くと、トロット総督は自らの保身のために行動せざるを得なくなりました。彼はエイヴリーとその部下たちに密告し彼らの逃亡を助けたが、全員が幸運だったわけではありません。 最終的に、エイヴリーの乗組員のうち24人が大西洋各地で捕らえられました。そのうち6人は1696年10月にロンドンのオールド・ベイリー(中央刑事裁判所)で裁判にかけられたのです。 この裁判はムガル帝国をなだめ、海賊行為に対する政府の断固たる姿勢を示すための政治的な見世物でした。驚くべきことに、最初の陪審団はおそらく海賊をロマンティックな英雄と見なす大衆感情の影響を受け、被告たちに無罪評決を下しました。これに激怒した裁判官たちは陪審団を非難し、新たな陪審団に圧力をかけた結果、望み通りの有罪評決が下されたのです。6人の男たちはロンドンの処刑ドックで絞首刑に処されました。
伝説への消滅
1696年6月にナッソーを逃れた後、ヘンリー・エイヴリーは信頼できる歴史的記録から完全に姿を消しました。彼のその後の運命は、歴史上最大の謎の一つとして残されています。 事実が空白となると、そこに伝説が生まれます。エイヴリーに関する神話の最も影響力のある源泉は、1724年に出版されたキャプテン・チャールズ・ジョンソンの『海賊史』です。この本は海賊の伝承を知る上で不可欠な資料ですが、現代の歴史家からは、誇張や完全な創作に満ちた信頼性の低いものと見なされています。ジョンソンの本はエイヴリーが故郷のデヴォンに戻ったものの、ブリストルの商人にダイヤモンドをだまし取られ、貧困のうちに死んだという物語を広めました。また、別の伝説では、彼がムガル帝国の王女(「ガンズウェイ号」に乗っていたとされるアウラングゼーブの孫娘)と結婚し、マダガスカルで海賊の王国を築いて王として君臨したとも語られています。 これらの伝説はエイヴリーという人物そのものよりも、18世紀の社会が抱いていた富、犯罪、自由に対する恐怖と願望を映し出しています。「貧困のうちに死ぬ」という話は、どんなに大きな犯罪も結局は報われないという道徳的な教訓として機能し、「海賊王」の物語は、文明社会からの逃避と究極の自由というロマンティックなファンタジーを満たしてくれるのです。
銀貨に刻まれたエイブリーの痕跡
何世紀もの間、エイヴリーの足跡は途絶えていました。しかし、2014年以降、驚くべき考古学的発見がこの謎に新たな光を当てています。アマチュアの金属探知機愛好家ジム・ベイリーが、ロードアイランド州の果樹園で17世紀のアラビア銀貨を発見したのです。 その後、イエメンなどで鋳造された同種の硬貨がマサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州、ノースカロライナ州の植民地時代の遺跡から十数枚発見されました。当時、ニューイングランドと中東の間にこれらの硬貨の存在を説明できるような交易路は存在しませんでした。 現在、最も有力な説はこれらの硬貨が「ガンズウェイ号」から略奪された財宝の一部であるというものです。この説はエイヴリーとその部下たちがバハマを逃れた後、アメリカ植民地へ渡り、奴隷商人を装いながら、略奪した硬貨を日々の物資の購入に使い、不正な富を「洗浄」しながら植民地社会に紛れ込んでいった可能性を示唆しています。これは、エイヴリーが歴史から姿を消す直前の足取りを、初めて物的な証拠で裏付けるものかもしれません。強奪そのものよりも、史上初の国際指名手配から逃げ切ったことこそが、エイヴリーの真の偉業でした。その偉業の証拠になるかもしれない銀貨の発見は、歴史の中の大海賊の姿を現在にもう一度蘇らせてくれました。
結論:大海賊が遺したもの
ヘンリー・エイヴリーの海賊としてのキャリアは、わずか2年間でした。しかし、その短い期間が歴史に与えた影響は、3世紀以上経った今もなお、計り知れないほど大きいのです。 「ガンズウェイ号」襲撃事件は、単なる犯罪ではありませんでした。それは歴史への運命の一撃となりました。この事件はムガル帝国とイギリスの関係を根本的に変え、東インド会社を商業的利益の追求から、やがてインド亜大陸を支配する帝国への道へと押し出したのです。また、それは国際的な法執行の新たな形態を生み出すきっかけともなりました。 ただの海賊の襲撃事件が歴史を変えてしまうきっかけになるとは、歴史とは一筋縄ではいかぬ面白いものだと思わせてくれますね。


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