序論:終わらない夢と、なぜか尽きないお金
世の中にはとんでもない夢を追いかける人々がいます。今回ご紹介する「フェニックス財団」もそんな組織の一つ。彼らは、まるで無限にお金(カネ)があるかのように、何度も「自分たちだけの国」を作ろうとしましたが、その試みはいつも壮大な失敗に終わりました。しかし、不思議なことに、何度潰されても、伝説の鳥フェニックスのように「なぜかカネを持って戻ってくる」という、謎めいた組織なのです。
第1部 自由の設計者:マイケル・オリバーという男の物語
フェニックス財団の全ての活動の背後には、一人の男の壮絶な人生経験がありました。マイケル・オリバー、彼がいなければこの物語は始まりません。
悲劇から生まれた「国家への恐怖」
マイケル・オリバー(1928-2024年)はリトアニアで生まれ、本名はモーゼス・オリツキと言いました。彼が10代の頃、ナチスによるホロコーストを経験し、複数の強制収容所を生き延びた、ユダヤ人家族で唯一の生存者でした。この悲惨な経験こそが、彼が一生涯かけて行った活動を理解するための、心理的な鍵となります。
「国家からの脱出」という哲学
第二次世界大戦後、アメリカに移住したオリバーは、あらゆる形の「国家の力」に対して、根深い恐怖心を抱くようになりました。彼は1960年代のアメリカでさえも、「ファシスト的な社会主義」という全体主義に陥る寸前だと見ていたのです。
彼はアイン・ランドの本を熱心に読み、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやジョン・ホスパーズといった「リバタリアン(自由至上主義者)」と呼ばれる思想家たちの考えに深く共感しました。そして、彼の国家への恐怖は「エクジット(脱出)」という哲学へと昇華されました。それは、「抑圧的な国家に直面した時、それを変えようとするのではなく、完全にそこから逃げ出すことが唯一の合理的な対応である」という信念でした。
彼の探求は、単なるビジネスや変わった趣味ではありませんでした。それは、彼の過去の亡霊から逃れるための「聖域」を築こうとする、極めて個人的で心理的な探求でした。国家が市民を守るどころか、市民を殺戮する側に回るのを目の当たりにした彼は、本当の安全は「国家が事実上何の力も持たない場所」にしか存在しないと結論付けました。彼のプロジェクトは過去のトラウマに対する文字通りの「要塞」を築く試みだったのです。
新しい国づくりの青写真
1968年、オリバーは自らの考えをまとめた『新しい国への新しい憲法』という本を自費出版しました。リバタリアンの間で瞬く間に売り切れになったこの本は、国防、警察、そして財産権の保護のみに力を入れる「最小限の国家」という彼のビジョンを詳しく説明していました。それは、税金、福祉、規制から解放された社会の設計図でした。これは単なる机上の空論ではなく、彼の将来のプロジェクトの文字通りの行動計画となったのです。
夢を実現する為のお金の出どころ
オリバーはネバダ州で土地開発業者および貴金属ディーラーとして成功し、「ネバダ・コイン・エクスチェンジ」という会社を経営することで大金持ちになりました。この富が、彼の哲学的な青写真をたとえ繰り返し失敗に終わったとしても、具体的な現実へと変える手段を与えたのです。
第2部 人工の国、あっけなく終わる:ミネルバ共和国の夢(1972年)
フェニックス財団が最初に着手した、そして最も大胆なプロジェクトは、南太平洋で始まりました。
ユートピアのための「地球改造」
フェニックス財団(当初は「オーシャン・ライフ・リサーチ財団」として活動)は、週に1万ドル(今の価値で数百万円)もの費用をかけて、オーストラリアから砂を運ぶ浚渫船を雇い、水面下に沈んでいたミネルバ環礁に砂を積み上げました。こうして、小さな人工の島が誕生したのです。
独立宣言
この新たな土地に彼らは小さな石と鉄の塔を建て旗(青地に金色の松明)を掲げ、独自の通貨を作り1972年1月19日、正式な独立宣言を発表しました。大統領に任命されたモリス・「バド」・デイビスは、彼らの理念を次のように明確に述べました。「人々は、やりたいことを何でも自由にできる。他人の権利を侵害しない限り、違法なものは何もない」。これには酒場や賭博場を開いたり、ポルノ映画を製作したりする自由も政府の干渉なしに含まれていました。
トンガ国王の反撃
隣国であるトンガ王国は歴史的にこの環礁を漁場として利用してきましたが、正式な領有権を主張したことはありませんでした。しかし、このプロジェクトを快くは思っていませんでした。体重180kgの威厳ある君主、タウファアハウ・トゥポウ4世は、このプロジェクトを自国への脅威であると宣言しました。南太平洋フォーラム(地域の国際会議)の承認を取り付けた後、彼は行動を開始しました。
一風変わった「侵攻」(そして悲惨な結末)
トンガの対応は、演劇的かつ決定的なものでした。国王は、王国の唯一の刑務所から釈放された囚人たちで構成される「軍隊」を編成し、4人編成のブラスバンドを伴って王室のヨットを派遣したのです。1972年6月18日に到着したこの部隊は、ミネルバの建造物を解体し、その旗を引きずり下ろし、バンドが国歌を演奏する中でトンガの旗を掲げました。
奇妙で悲劇的な展開として、囚人たちが作業を進める中で喧嘩が勃発し、一人の囚人が別の囚人によって殺害されました。これにより、消滅したミネルバ共和国は、その人口(たったの数人)よりも高い殺人率を持つという驚くべき統計を残すことになりました。
内部崩壊と再挑戦
この混乱のさなか、オリバーは大統領デイビスを解任し、プロジェクトは崩壊しました。しかし、その10年後の1982年、不屈のデイビスは別のアメリカ人グループを率いて環礁の再占領を試みましたが、3週間後にトンガ軍によって追い払われました。その後、建設されたわずかなものは、あっという間に海へと消えていきました。
ミネルバの失敗は、工学技術の失敗ではなく、政治的な想像力の失敗でした。オリバーの弁護士チームは、公海上に新たな土地を造成すれば主権を主張できる「かもしれない」と助言しましたが、これは国際法の純粋に理論的で、法解釈に偏った見方でした。彼らは地政学的な現実を完全に無視していたのです。
新たに独立したばかりのトンガは、このプロジェクトを斬新な法学的実験としてではなく、自国の地域的な影響力と歴史的な権利に対する直接的な挑戦と見なしました。南太平洋フォーラムの他の国々もトンガに同調しました。なぜなら、外国の民間団体が新たな国家を創設することを許せば、自国の主権にとっても危険な前例となると認識したからです。フェニックス財団は、地図上の(あるいは水面下の)空白地帯は自分たちが自由にできるものだという、植民地時代の考え方で行動していました。彼らは、植民地支配後の世界における主権が、単なる法的な抽象概念ではなく、国家のアイデンティティと地域の安定のために固く守られるべき原則であることを根本的に誤解していたのです。トゥポウ4世の演劇的な対応は、この現実を痛感させるための、的を射た教訓だったと言えるでしょう。
第3部 バハマの裏工作:アバコ島の独立騒動と謎の傭兵(1973年)
ミネルバでの大失敗から学び、フェニックス財団は戦略を変えました。新しい土地を創るのではなく、植民地支配が終わったばかりの不安定な時代に存在する「独立運動」に乗っかろうとしたのです。
アバコ独立運動(AIM)
1973年、バハマがイギリスからの独立に向かう中、アバコ島に住む白人の一部(多くは昔イギリス王を支持した人たちの子孫)は、ナッソーを拠点とする黒人多数派の政府の支配下で生活することに不安を抱いていました。フェニックス財団はこれをチャンスと捉え、チャック・ホールとバート・ウィリアムズが率いるアバコ独立運動(AIM)に資金を提供し、彼らの広報誌『アバコ・インディペンデント』の発行まで支援しました。
謎の傭兵が登場
この運動は、悪名高いアメリカの武器商人であり、傭兵、そして元OSS工作員でもあるミッチェル・ワーベル三世の関与によって、暗い方向へと転換しました。秘密解除されたCIAとFBIの文書によれば、ワーベルとオリバーは協力関係にありましたが、その目的は全く異なっていたようです。
食い違うユートピア像
オリバーにとって、アバコはリバタリアン的な統治における新たな「道徳的な実験」の場でした。一方、ワーベルにとっては、それはビジネスチャンスに過ぎませんでした。彼は、賭博カジノや、場合によっては武器製造工場を備えた「観光のメッカ」を築くことを目論んでいました。ワーベルは傭兵を募集し始め、元CIA工作員を巻き込もうとし、このクーデターがアメリカ政府の支援を受けているかのように見せかけました。
有名雑誌の暴露記事
この陰謀は、1975年2月の『エスクァイア』誌に掲載されたアンドリュー・セント・ジョージの記事「驚くべき新国家詐欺」によって公に暴露されました。自慢げなワーベルへのインタビューを中心としたこの記事は、武装蜂起の計画を詳細に記述していました。この暴露記事はAIMの信用を完全に失墜させました。運動はすぐに非暴力的な「アバコ自治運動」へと名称を変更しましたが、その信頼は打ち砕かれ、1977年の選挙で惨敗した後、消滅していきました。
アバコでの失敗は、フェニックス財団の目標に内在する根本的な矛盾を露呈させました。ミネルバ・プロジェクトは、ゼロから構築された「純粋な」思想に基づく事業でしたが、その失敗は国家を無から創ることの困難さを示しました。そこでオリバーは、土地を造成する代わりに既存の政治紛争を利用するという、より現実的な権力への道を選びました。しかし、この現実主義的な転換には協力者が必要であり、彼が見つけた協力者、特にワーベルは、利益と権力に突き動かされる傭兵でした。アバコ計画の「現実政治」にとって必要悪であったワーベルとの同盟は、暴力、武器取引、そして露骨な商業主義をプロジェクトに持ち込みました。領土を奪取するために必要な手段そのものが、彼らがそこで確立しようと望んでいたリバタリアンの「非侵略」という原則とは相容れないものでした。この現実主義への転換は、プロジェクトの思想的な純粋性を内側から腐敗させました。『エスクァイア』誌の記事は、すでに存在していた腐敗を白日の下に晒したに過ぎないのです。
第4部 南太平洋のモーゼ:バヌアツのココナッツ戦争(1980年)
フェニックス財団の最後の主要な試みは、イギリスとフランスの共同統治領から「バヌアツ」として独立する直前のニューヘブリディーズ諸島で行われました。ここで彼らは、エスピリトゥサント島で影響力を持つ先住民グループ、「ナグリアメル運動」と同盟を結びました。この運動は、伝統的な土地の権利(カスタム)を取り戻すことに焦点を当てていました。
ジミー・「モーゼ」・スティーブンス
ナグリアメル運動を率いていたのは、カリスマ性がありながらも複雑な人物、ジミー・スティーブンス(1916-1994年)でした。ヨーロッパとトンガの血を引く彼は、自らを民を約束の地へと導く救世主的な「モーゼ」と称しました。派手な演説家であり、カルト的な支持者を持つ彼は、伝えられるところによれば23人の妻と数十人の子供がいたと言われています。
利害の一致による同盟
フェニックス財団は、スティーブンスの独立願望を、リバタリアン的な自由貿易地域への切符と見なしました。彼らはナグリアメル運動に25万ドル、武器、無線機材を提供しました。その見返りとして、カジノやその他の事業の利権を約束され、運動のレトリック(言葉遣い)に大きな影響を与え、よりリバタリアン的な方向へと押し進めました。彼らは、提案された新しい国の憲法草案の作成にさえ協力しました。
「ココナッツ戦争」
1980年6月、バヌアツ独立の前夜、スティーブンスはエスピリトゥサント島に「ベメラナ共和国」の独立を宣言しました。ウォルター・リニ首相(英国国教会の司祭であり、「メラネシア社会主義」の提唱者)が率いるバヌアツ新政府には軍隊がありませんでした。政府はパプアニューギニアに助けを求め、同国は一個大隊を派遣しました。パプアニューギニア軍は、主に弓矢で武装した反乱を、「ココナッツ戦争」として知られる短い紛争で速やかに鎮圧しました。
その後
スティーブンスは逮捕され、懲役14年の判決を受けました。数年後、死の床で彼は、自らの最大の過ちは、ドルで彼を盲目にさせたマイケル・オリバーのような外国の投機家を信用したことであったと伝わっています。
バヌアツでの一件は、思想的な植民地主義の一形態でした。ナグリアメル運動は、スティーブンスの下で、植民地支配に対する先住民の土地の権利と慣習(カスタム)の保存を中心とした、正当で既存の不満を抱えていました。しかし、全く異なる思想(自由放任資本主義)を持つ外部グループであるフェニックス財団は、そこに機会を見出しました。彼らは資金、武器、そして独自のリバタリアン憲法のアイデアを運動に注入しました。これにより、独立のレトリックと目標は明らかに変化し、タックスヘイブンや自由貿易地域モデルへと傾いていったのです。
フェニックス財団は、その「反国家的な」という言葉とは裏腹に、古典的な植民地大国のように振る舞いました。彼らは地域の亀裂を見つけ、それを自らの経済的・政治的目的のために利用し、外国の統治システムを現地の人々に押し付けようとしたのです。彼らは真の先住民運動を乗っ取り、その本来の目的を自らのリバタリアン的なテンプレートに合うように歪めました。スティーブンスがこの事実に気づいたのは、悲劇的にも敗北した後でした。
第5部 失敗の構造と「不死鳥の黄金の羽」
以下の表は、フェニックス財団の3つの主要プロジェクトをまとめ、その戦略、主な関係者、そして結果を比較することで、失敗の繰り返しパターンを明らかにします。
フェニックス財団の国家建設プロジェクト概要
| プロジェクト | 場所 | 戦略 | 主要な現地協力者 | 主な敵対者 | 結果 | 失敗の核心的理由 |
| ミネルバ共和国 | ミネルバ環礁、南太平洋 | 人工島に新たな主権領土を創設 | モリス・「バド」・デイビス(任命された大統領) | トンガ王国(タウファアハウ・トゥポウ4世) | トンガに速やかに併合され、建造物は解体された。 | 地域の地政学と国家主権の原則に対する甚だしい過小評価。 |
| アバコ独立運動 | アバコ、バハマ | 脱植民地化の分離独立運動を乗っ取る | チャック・ホール、バート・ウィリアムズ(AIM指導者)、白人王党派の少数派 | バハマ政府、ミッチェル・ワーベル三世(信頼できない協力者) | 傭兵の関与と公の暴露により運動の信用が失墜し、消滅した。 | 信頼性の低い人物との同盟、リバタリアンの理想と傭兵の手法との内部矛盾。 |
| ベメラナ共和国 | エスピリトゥサント、バヌアツ | 先住民ナショナリスト・分離独立運動を支援 | ジミー・スティーブンス(ナグリアメル指導者) | バヌアツ政府(リニ首相)、パプアニューギニア | 「ココナッツ戦争」。パプアニューギニア軍により反乱は鎮圧され、スティーブンスは投獄された。 | 思想的植民地主義。現地の不満を外国のリバタリアン的枠組みに単純に当てはめることの失敗。 |
繰り返される敗北のパターン
3つの失敗すべてに共通する点(糸)を分析すると、以下の点が浮かび上がります。
- 主権に対する盲点: 既存の国家が、自国の影響圏内での「ならず者国家」の創設を容認しないという事実を、一貫して理解できていませんでした。
- 「無主の地」という誤解: 西洋的な意味で正式に占有または「開発」されていない領土は、歴史的な利用や現地の主張を無視して、空白であり、自分たちが自由に手に入れられるものだという植民地時代の信念を持っていました。
- 思想の柔軟性の欠如: 厳格で抽象的なリバタリアンモデルを、複雑で文化的に特殊な政治状況に押し付けようとした結果、失敗する運命にあった、その場しのぎの同盟を結ぶことになりました。
不死鳥の黄金の羽(尽きない資金源)
フェニックス財団の尽きることのない資金源は、その不死鳥のような再生能力の鍵でした。夢を決して諦めさせなかった主要な支援者には、次のような人物がいました。
- ウィラード・ガーベイ: カンザスを拠点とする小麦と住宅の大物で、政府を「邪魔な問題」と見なし、民間企業を解決策と信じる熱心な自由企業主義の擁護者でした。
- ジョン・テンプルトン: 伝説的な投資家であり慈善家。彼の財団は「個人の自由と自由市場」に関する活動を明確に支援しています。
- その他: 投資顧問のハリー・D・シュルツや南カリフォルニア大学の哲学教授ジョン・ホスパーズといった人物の関与も注目されます。彼らは単なる投資家ではなく、この大義に身を捧げた真の信奉者のネットワークであったことが伺えます。
第6部 不死鳥の反響:環礁とジャングルから未来のユートピアへ
フェニックス財団自体は歴史上の組織となりましたが、その核心をなす「リバタリアン・エクジット(国家からの脱出)」という思想は、かつてないほど活気に満ちています。国家から脱出するという夢は、マイケル・オリバーと共に死んだわけではなかったのです。
現代に受け継がれる夢
オリバーのプロジェクトから、現代の運動へと続く直接的な思想の系譜をたどることができます。
- シーステディング研究所: 経済学者ミルトン・フリードマンの孫であるパトリ・フリードマンによって設立され、PayPalの共同創業者ピーター・ティールから重要な初期資金(50万ドル)の提供を受けました。浮遊式の半自治都市を創造するという彼らの目標は、ミネルバ共和国のハイテク版と言えるでしょう。フランス領ポリネシアのようなホスト国と交渉しようとする彼らの試みは、オリバーの後期の戦略を彷彿とさせます。
- 自由私設都市と暗号資産ユートピア: ホンジュラスで物議を醸した「自由都市」プロジェクトや、暗号資産の億万長者がバヌアツのような場所で島を購入しようとする試みなど、現代の事例も増加しています。これらのベンチャーは、テクノロジーによるユートピア主義と分散化の言葉を使いながらも、その目標は同じです。すなわち、市場原理によって統治され、民主的な監視から解放された飛び地を創設することです。
結論:同じ夢、新しい形
フェニックス財団の物語は、単なる歴史的な珍事の集まりではありません。それは、強力で潤沢な資金を持つ現代の運動の起源の物語なのです。その方法は環礁に砂を積み上げ人工島を作ることから、浮遊プラットフォームを設計し、ブロックチェーンを活用することへと進化するのかもしれません。しかし、資本が主権者となり、民主国家の力が及ばない世界を築くという根本的な探求を持つ人は今でも数多くいるのではないでしょうか。マイケル・オリバーの失敗の遺産は、同じ捉えどころのない、不沈の夢を追い続ける現代の後継者たちへの警告なのかもしれません。


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